全力だった。ただそれだけ。
@hiroboou
始まり
昭和17年(1942年)12月某日。
私の故郷である群馬の朝は、冷たい冬の空気が静かに家々を包んでいた。空はどこか灰色がかって、遠くの山々にはうっすらと霜が降りていたことだろう。寒さが床下から這い上がるような日、私はこの世に生まれた。
父・母・の2人の姉がいる末っ子、そして、初めての男の子。父にとって私の誕生は特別なものだった。待望の長男である。なにしろ、二人目である次女の姉が生まれた際、父はまた女かと肩を落とし、しばらく病院へ行くことも、その顔を見ることもなかったというほどらしい。
それだけに、私という長男誕生の報せを聞いた時の父の喜びようは、まるで冷たい空を突き抜けるほどであったという。
私の名は「ヒロシ」。歴史に名を残すような人間に育ってほしい――そんな親の大きな期待を込めて、付けられたそうだ。少々とまあ親ばかが過ぎるとも思えるが、それほどの喜びだったのだ。
物のない時代であったが、息子である私には特別に衣食に金をかけ、甘やかされて育っていった。
父は飛行機製造会社の社員であった。戦時中、群馬の空を飛ぶ飛行機に携わっていたという。しかし戦後、その道を離れ、実家の整経業を手伝うことになった。
整経とは、織物の糸を均一に整え、機械にかけるための下ごしらえのような工程をする。織物の町であった故郷の地は、街を歩けばどこからともなく織機の音が聞こえてくる。そんな機械の響きに混ざって、父の懸命に働く背中もあった。
母もまた、糸繰りの作業を朝早くから夜遅くまでこなしていた。手先の器用さと集中力が求められる、根気のいる仕事だった。冬の朝、まだ日も昇らない時間から糸車に向かい、家族のために糸を巻き続けていた。
そんな両親の姿を見て、近所の人たちは口を揃えて言った。「あの夫婦は、本当に働き者だね」と。
我が家の自宅そのものは、ごく普通、いや、見た目には中流以下であろう。すきま風の入る木の床や古い柱、時折軋む床板がある木造家屋だった。
食べるものにはなんとか困らず、衣類もそれなりに揃っていた。けれど、子どもながらに両親は無理をしてるなと、どこかで感じていた。
いつか自分が働けるようになったら、両親に楽をさせたい。そんな気持ちは、胸の奥にずっと残り続けた。
赤ん坊の頃の私は、とにかく泣かない子であった。「あそこの家、赤ちゃんいたっけ?」と近所の人が首をかしげたほどである。
父は、真面目で働き者、スポーツ大好き人間であった。母は、物静かで、子供のころから読書好きであった。その文学少女風の母に父が魅かれたと、後に知ることになる。
三人きょうだいの末っ子、しかも歳の離れた姉がいると、自然とわがままな甘えた性格になる。けれど、甘えっぱなしでいられない空気もあった。姉たちがしっかりしていたぶん、自分なりの個性を見つけようと、どこかで足掻いていたのかもしれない。
そんな時代背景の中で、もうひとつの大きな流れが私の人生に重なっていく。――それが「野球」だった。
戦争が終わり、荒れた日本が少しずつ落ち着きを取り戻す昭和20年代後半。プロ野球が復活し、街の空き地には子どもたちが集まり、バットとボールで遊ぶ風景が日常になっていった。
長嶋、王といったスターたちがテレビに登場し、空き地が“甲子園”に見えた時代。夢はテレビの中ではなく、足元に転がっていた。
小柄だった私は、体格ではみんなにかなわなかった。でもその分、誰よりも努力しようと思った。泥だらけになっても、打てなくても、肩が痛くても、とにかく続けた。「努力すれば、きっと報われる」――その信念は、この時に形作られたものだった。
そして、あの寒い冬の日に産声をあげた私の物語は、ここからようやく始まっていく。
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