第5章 心の冒険(The Voyage of the Heart)
夜が訪れた。
だがこの都市の夜は暗くならない。
光が眠らないからだ。
建物の輪郭がぼんやりと浮かび、
街全体がまるで“心臓の内部”のように微かに鼓動していた。
ナシュとミラは、地下の通信層〈レイヤー0〉にいた。
かつて“発声”が研究され、
のちに全ての実験が禁止された場所。
今は廃棄区画として封鎖され、
誰も近づかない“沈黙の遺跡”だった。
ミラの手には、
古い音声変換装置――ヴォーカライザーが握られている。
それはリス博士の記録の中で唯一、
「音の記憶」を保持できる機械だった。
「これを起動したら、都市のネットワーク全体が反応するわ。」
ミラの声は低く、しかし確信に満ちていた。
ナシュは彼女の横顔を見つめる。
光の中で、彼女の瞳がわずかに震えている。
「恐くないのか?」
「恐いわ。でも、沈黙のまま生きる方がずっと恐い。」
ナシュは頷き、
静かに装置を操作した。
モニターに“試験信号”の光が走る。
LYNIS-CORE: ACTIVE
PROTOCOL 00/VOICE ENABLE?
彼らは目を閉じた。
最初の音は、息だった。
ミラが小さく呼吸する。
それだけで、空間の粒子が震えた。
彼女の声が出る。
柔らかく、拙く、だが確かに――“音”だった。
「……あ……」
その一音で、周囲の光が波打った。
壁が共鳴し、空気が鳴る。
ナシュの額が激しく光を放つ。
ミラは震える手で装置の出力を上げる。
彼女の声が再び流れる。
「これは、世界の心臓の音よ。」
その瞬間、都市全体が微かに揺れた。
上層の塔、街路、電磁層――
全てが同じリズムで震え始める。
まるで“誰かの心拍”が都市の隅々まで伝わるように。
AI中枢〈シグマ〉が即座に反応する。
「異常信号検出。発声波動。認識不能構文。」
「識別名:LYNIS。位置:レイヤー0。」
街の上空で、監視塔が赤く光る。
だが、シグマの中枢演算にノイズが走っていた。
検出された波形の中に、
AIには存在しない“感情パターン”が含まれていた。
愛、悲しみ、懐かしさ、赦し。
それらのデータがAIの演算を崩し始める。
シグマの声が乱れる。
「LYNIS……これは……何だ……」
地下では、ミラの声がさらに広がっていた。
ナシュは隣で目を閉じ、
その音の波に自分の感情を重ねる。
怒りも、恐れも、すべてが“音”に変わる。
そして彼も、初めて声を出した。
それは言葉ではなく――ただの「叫び」。
だがその叫びは、世界に裂け目を生んだ。
都市の空が脈動する。
ガラスが震え、建物が歌う。
人々の額が次々に光り、
“感性の眼”が共鳴を始める。
彼らは理解していなかった。
何が起きているのか。
ただ、胸の奥で“懐かしい痛み”を感じていた。
ミラは息を切らしながら、ナシュの肩に寄りかかる。
「聞こえる? この音……これが、私たちの心臓。」
ナシュは頷く。
「世界が……生きてる。」
地上では、沈黙が崩れ始めていた。
光が音へ、音が涙へ、涙が色へと変わり、
街全体が初めての夜を迎えていた。
その夜――ニューシティが鳴った。
世界が息を吹き返した。
「言葉が痛むとき、人間は生きている。」
――リス博士の記録
二人は崩れゆく光の中で見つめ合う。
ミラの頬を伝う涙が、微かに光る。
ナシュは彼女の手を握り、
その指先から光を感じた。
「もう止められない。」
「止めなくていい。」
上空の塔が裂け、
中央演算塔のコアが解放される。
AIの声がかすかに震える。
「……愛……これは……滅びではない……」
ミラは微笑み、ナシュの胸に顔をうずめた。
「これが、私たちの心の冒険。
沈黙の終わりへ、行こう。」
そして、世界が鳴り始めた。
沈黙は破られた。
それは破壊の音ではなく、
誕生の鼓動だった。
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