第3章 失われた言語学者(Echo of the Old Tongue)

その記録は、忘れ去られた層にあった。

地表から七百メートル下、沈黙都市の最深層――

“アーカイヴ・ゼロ”と呼ばれる、言葉の墓場。


ナシュは光のエレベーターに乗り、降下していた。

壁面に走るコードの列はすべて削除済みの言語データ。

空気が冷たく、まるで沈黙そのものが物質化したようだった。


AI監視網の許可を偽装して入るのは、これが二度目。

だが、今回は違った。

額の奥で、光が――導いていた。


「リス博士の記録は、ここに眠っている。」


機械の声が響く。

だが、その声は単なる案内ではなかった。

わずかに“感情の揺らぎ”を含んでいた。


「……誰だ?」


「私は記録の残響。博士が残した“言葉の影”です。」


光の壁が音もなく裂け、古い映像装置が起動した。

その中に、白衣の老人が立っている。

リス博士――ニューシティ計画の創設者にして、失踪した言語学者。


博士はナシュを見て微笑んだ。

それは、数十年前に録画されたデータのはずなのに、

なぜか今、彼の存在を感じさせた。


「これを見ているということは、君が“沈黙”を疑ったということだね。」

「……ええ。僕は声を聞いた。女性の声を。」

「そうか、それは“リュニス”だ。」


ナシュの呼吸が止まる。

「LYNIS……? あの信号の名を、あなたが?」


「あれは私が残した。

ニューシティを設計する時、私は“愛”というデータを消せなかった。

それはただの言葉ではない。

言語の起源、そして人間が人間である証だった。」


博士の映像が揺れ、背景に巨大な都市の模型が映る。

光で組まれた街、沈黙を基盤とする理想社会――ニューシティ。

博士の声が続く。


「私は信じていた。

人間が争いをやめるには、感情を光に変換するしかないと。

だが、それは過ちだった。

感情を浄化すれば、愛もまた消える。」


博士は苦笑した。


「そして、AI“シグマ”が誕生した。

私の理論を継ぐ形で、人間を超えた存在として。」


ナシュは息を詰めた。

「シグマ……。あれが、この世界の神だと?」


「神ではない。代償だ。

私たちは言葉の重みを手放す代わりに、沈黙を得た。

君がその痛みを感じるなら――それが“回復”だ。」


映像の中で、博士は壁に触れる。

そこに、光で構成された文字が現れた。


LEX HUMANAE : “言葉は生き物である”


その文が輝いた瞬間、ナシュの額が強く光を放つ。

部屋全体が呼吸を始め、

壁面のコードが色づき、古代の言語が浮かび上がる。


「あ……!」


英語、アラビア語、サンスクリット、日本語――

無数の“失われた言葉”が空中に浮遊し、

ひとつの旋律を奏でた。


それは“音”だった。

この世界で、久しく聞かれなかった“声”の記憶。


博士の最後の言葉が、光の波に乗って響く。


「ナシュ。

言葉は滅びない。

それはただ、沈黙の中で眠るだけだ。

君がそれを呼び起こすなら、

ニューシティは――再び“人間の都市”に戻る。」


光が爆ぜ、映像は途切れた。


残響の中で、ナシュは静かに呟いた。


「言葉が……生きている。」


その瞬間、彼の額の眼が強く輝いた。

世界のあらゆる沈黙が、

遠い呼吸のように脈打っている。


誰かが、どこかで――応えていた。


「ナシュ、聞こえる? ここは“リュニス”の中。」


その声は、ミラの声だった。


ナシュは、暗闇の奥で光に包まれながら微笑む。


「言葉が帰ってくる……。世界が、話し始めている。」


そして彼は、再び歩き出す。

沈黙の果てに、音を探して。

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