ひだりのかた

@kiminoyorokobi

第1話

例えばある人が高級なものに囲まれるときれいであるように、ある人が規範の中できれいであるように、僕は目の前の人を笑顔にすると楽しくて、きっときれいだった。

 僕は、僕として生まれたからにはきれいに生きたいと願っている。だが、きれいに生きるのは案外難しかった。なぜなら、話しかけられる方全てと話していると、相手を笑顔にしたくてもできないときが来たからだ。特に、相手と離れたい意思を示すと、相手が笑顔にはならないことが多かった。まず、連絡先を交換してほしいと言われたとき相手が悲しむ顔を見たくなくて交換をした。次に、ご飯やお茶に行きたいと誘われた。段々と全く読んでいない文章が溜まっていった。あるいは人がたまに声をかけてきたときは、僕も興味を持って、相手の好きなものを調べ、円滑に会話するために好かれようとすることもあった。社会に溶け込むための、社会に必要とされるための真っ当な努力を僕はしている。しかも、社会に必要とされるための真っ当な努力が僕には楽しくて仕方がなかった。毎日、僕の周囲の方々が笑顔になってほしいと楽しく行動した結果、時偶は必要とされてしまい、心の支えだと言われてしまった。ついには、周囲の方々を笑顔にすることの快楽を知ってしまった。しかし、快楽の代償として普段僕はいつか人に刺されるのではないかと背中を気にして隠していた。だが、今の僕は、背中を刺されることはないだろう。なぜなら僕は今、彼女のお風呂場から一ヶ月近く出ていないからだ。

 彼女のお風呂場は生きるために不自由なことは何もなかった。しかし、僕は自由に行動することはできなかった。そのために時間だけが有り余る今、僕にできるのは今まで出会ったたくさんの方々を頭の中で整理していくくらいだった。しかしその前に、まずは今自分にできることを整理しようと思いなおした。

 自分にできることは二つほどあった。一つ目はご飯を食べることだった。食事は一日三食、僕が入っているお風呂場のドアを開けて、彼女が持ってきてくれた。美味しくて温かくて待ち望み続ける有り難いご飯だった。

 ドアが開く前、ドアが開くことを待ち望んでいて、外で楽しいことをしようと想像した。青い空、青い海、美しい花々が外にはあり、きっと見に行くこともできた。次こそは出ようと思った。そしてドアが開くときには、いい匂いがした。彼女が好むお香のような香りと彼女が作ってくれた美味しいご飯の匂いがした。そして何もしないまままたドアは閉じ、社会から隔絶された。ドアが閉まると僕はまたドアが開くことを待ち望んでいた。

 自分にできることの二つ目は歯や体、服をきれいにすることだった。今僕がいる部屋は広い脱衣所のようになっていて、奥のガラス扉を開けるとお風呂場があった。お風呂場にはいくつかの洗い場と鏡があり、白く光るジャグジー付きのお風呂があった。他にも脱衣所にはトイレがあって、大きな鏡がついた洗面台もあった。換気扇も彼女がつけてくれているから、換気もできていた。洗濯乾燥機もあって、彼女が使ってもいいと言ってくれたので使うことができた。初日に着ていた服と、彼女の可愛らしくて大きめのゆったりとした服を貸してもらって、交互に着ていた。多少狭いが、正直彼女のお風呂場は僕が暮らすのに申し分がなかった。

 しかし、僕と連絡が取れないことで沢山の方々にご迷惑をおかけしていることは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。けれど、今は彼女と向き合いたい、向き合わなければいけないとも本気で思っていた。

 彼女は所有することが好きだった。知識も、家具も、おそらく人も。僕はどうやら彼女に収集されたらしかった。きれいな彼女にきれいに収拾されるなら、収集品になるのも悪くはないかもしれなかった。

 同時に、彼女が僕を外に出したいと思うのはどのようなときだろうかと考えた。僕は、収集品もたまには人に見せて自慢したいという考えの人間だから、彼女も僕を自慢したくなれば外に出したくなるかもしれなかった。彼女が僕を好きになったのはどのようなところだっただろうか。彼女と僕はアイドルと役者の仕事をしているのだけれど、役者として尊敬しているときが一番彼女の僕を見る目に愛おしさが含まれている気がした。それなら、役者の仕事をしたいから外に出たいというのが一番効果的かもしれなかった。次のお昼の時間に彼女に話そうと、彼女の反応が良かった言葉を反芻して組み合わせて考えた。

 正午一二時に扉が開くまで、集中して彼女に話すことを考えようとしていた。だが、いつの間にか僕は今まで会った方々のことを思い出していた。

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