理系男子の僕が義妹の夢を救うためには密室で密着するしかないようです。
小林夕鶴
第1話
「それじゃあ、悪いけど日直は黒板を消しといてくれ」
そんな言葉を残して国語教師が足早に去って行くと教室の空気が緩んだ。誰かが発した一言が連鎖するようにあっという間に放課後の喧騒に包まれる。
その様子を不思議に思いながら呆けていると後ろから声がかかる。
「優樹、どうした? ボケっとして」
姿が見えなくても分かる。このクラスで唯一声をかけてくれるのは神谷くんだ。
「いや、新しい知識を得られる授業中に副交感神経優位で、休みになったら交感神経優位になるのは逆じゃないかなと……」
前に回り込んだ神谷くんのキラキラした大きな瞳は座ったままの無表情な僕を映す。髪の伸びて自分で見てもいかにも暗そうだ。
「なんと神経は分かんねぇけど、要はアドレナリンだろ? やらなきゃいけない授業よりやりたいこと出来る放課後の方がアガるのは普通だろ」
授業もやりたいことだけど……ふむ、確かに一理ある。僕もやりたいことがあったんだ。
「おい、まてまて。何で今の話からおもむろに分厚い図鑑みたいの取り出してんだ」
「あ、これ? 確かに分厚いよね。薄い解剖学の本もあるんだけど、やっぱりより正確に調べるには分担解剖学が良いんだよ」
神谷くんが眉を寄せる。イケメンは顔をしかめてもイケメンだ。
「違う。おれが聞いたのは本の厚さじゃなくて、いや厚さも気になるけど、放課後は上がるって話で何で解剖学?ってこと」
「さっきの岡田先生が肩が痛そうだったから調べてみたくて。やりたいことが出来るのは確かに高揚するね」
「んー、優樹がやりたいことならまぁいっか。でも周りは引いてるから程々にな」
言われて周りを見渡すと確かに少し距離を取られている気はする。うん、いつも通りだ。
「神谷くんは部活?」
「おう!今日から1組の子がマネージャーで来てくれるだ。せっかく高校生になったんだ。青春や恋愛しなきゃウソだぜ」
神谷くんは中学から青春も恋愛もしてたでしょと突っ込むのは野暮だと流石に分かる。
「怪我のないように部活頑張って」
「おう!ありがとな!中3の時みたいなヘマはしないぜ。じゃーな」
「うん。神谷くん。また明日」
神谷くんは爽やかに走りさりながら「和也って呼んでくれよな」と手を振る。
爽やかな太陽が行ってしまえば僕の周りは夜のように静かだ。
(青春や恋愛とは程遠い、神谷くんからしたらウソの高校生活になるんだろうな……恋愛なんて義姉妹の存在が関係する、最も面倒で、非科学で、最も忌避している)
少し感傷的な思いも、目の前に広がる新しい知識の海の前ではすぐに流されて、湧き出るアドレナリンを感じながら深く潜ってゆく。
———
興奮した声にふと顔を上げると教室にはすでに誰もいない。
案の定、神谷くん以降は誰にも声をかけられなかった。
集中を乱すほどの声は中庭からのようだ。
「やばい!めっちゃかわいい子が昇降口で踊ってた!」
「あれ、“ぶーこん”じゃないかって噂だぜ」
「誰だよ、ぶーこんって」
「はぁ? 知らねぇのかよ。去年か一昨年にSNSでバズってた踊り手だよ!めっちゃかわいいんだよ!」
「知らねぇけど見たい!ランニングなんか抜け出して見に行こうぜ」
確かに新たな好奇心に飛びついて行く様は健全なように思う。僕の好きな学問も先人たちの好奇心が繋いできたものだから。
たまたまみんなと僕の欲求か違うだけ。
帰り支度を済ませて、昇降口に向かうとすでに部活の時間なのに人集りが出来ていた。
しまったな。昇降口って1年用の方だったのか。
かわいい子にすぐに飛びついていきそうな人たちが知らない子……そりゃ1年生か。
少し考えれば分かることだけど、残念ながら興味のあることにしか僕の頭は働いてくれない。
テスト順位は良くても地頭が良いわけではないんだろう。
なかなか通れない人混みから外を見る。
人混みの中心にいる女の子が視界に入ると、僕の意識は飛んで消え、目は奪われて動かなくなる。
そこでは女の子がMVが人気で数年前に流行ったハウス音楽に合わせて踊っていた。
——その金色の髪の毛は跳ねるたびに4月の日差しを反射して煌めく。
アンバーの瞳は踊ることの喜びをたたえるように輝いて。
透き通るような白い手足はその先端にまで意識があるかのように洗練されていた——
まるで一枚の絵画のような、映画の1シーンのような、ずっと見ていたい光景だった。
内側眼窩前頭皮質が活性化し、ドーパミンが分泌されていく——そうか、これが“美しい”か。
そのとき、彼女が大きく体を捻る動作をする。
完璧な動作だった。だけど、一瞬、右の股関節がごく僅かに、誰にも気づかれないレベルで沈み込む。そして、その直後、腰部がそれを打ち消すように不自然に緊張する。
痛みによる防御収縮か?
無意識にどこかを庇った代償動作か?
もしかしたら、ケアさえ出来れば更に完成度が上がる?
これは神谷くんが言っていた“恋愛”というテンションが上がるものではない。
——奪われた目は動作分析のため
——早鐘を打つ胸は交感神経優位のため
僕は僕の脳に起こったことを客観的に分析して、あくまで知的好奇心からくる生理現象だと、僕は即座に結論付けた。
じゃあ、ケアを理由にでも彼女に近づきたいと思ってしまった心はどう捉えれば良い?
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