第一章 あの日の記憶と信号待ち

放課後の駐輪場は、まだ昼のざわめきをわずかに残していた。


サッカー部の掛け声、吹奏楽部の音色。


それらが遠くから混じり合い、夕陽が校舎の窓に反射してコンクリートの地面をオレンジ色に染めていた。


その中で、如月恭平は黒いバイクの前に立っていた。


十七歳、高校二年。


中学の頃は目立たない存在だったが、背が伸び、精悍な顔立ちになった今は、教室の中でもどこか「影」を纏っていた。


口数が少なく、表情もあまり変えない。けれど、ひとつひとつの仕草に無駄がなく、不思議と人目を引き女子達から人気があった。


彼は、無言でバイクのキーを差し込む。


夕陽がタンクに映り込み、長身の影を揺らした。


「お、また走るんか?」


同じクラスの男子が声をかけてきた。


「……あぁ」


短い返事。それだけ。


「ほんま無口やな。たまには遊び誘えや」


男子は笑って手を振り、すぐに去っていった。


恭平は振り返りもせず、黙ってヘルメットをかぶる。


顎ひもを締め、深く息を吸い込む。


エンジンをかけると、低い振動が胸に響いた。


アクセルを軽く回すと、黒いバイクは夕暮れの街へと走り出す。


――校門を出て信号待ちで停まったそのとき。


「ねぇ一花、あれ見て! めっちゃイケてへん?」


歩道にいた友達の美咲が、指を差した。


「え? ……ほんまや。あれ、如月くんちゃう?」


滝野一花は目を凝らす。


彼女はクラスの中心にいる明るい少女だった。


少し茶色がかったセミロングの髪を揺らし、大きな瞳でいつも笑顔を浮かべている。


誰とでも気さくに話せる一花は、恭平のように寡黙で頑固なタイプとは対照的だった。


けれど今、一花の視線は無意識に黒いバイクへと吸い寄せられていた。


「やっぱそうやん! ええなぁ、バイク乗れるとか」


美咲が声を弾ませる。


その声が、信号待ちの恭平に届いた。


胸の奥で心臓が跳ねる。


(……聞こえた。俺のこと、見てた?)


信号が青に変わる。


恭平は迷わずアクセルを回し、走り去った。


けれど鼓動は、バイクの音よりも大きかった。


(……あかん。なんで意識してんねや)


一花は走り去る背中を目で追っていた。


夕陽に溶けていく黒いシルエット。


その瞬間――春の親子面談の記憶が、ふいに甦った。


窓越しに見た、校門でバイクを降りる恭平の姿。


廊下で母親と笑い合っていた声。


そして、一瞬だけ交わったあの視線。


(あのときと……同じ目や)


心臓がかすかに鳴る。


「やっぱり如月くんやったな」


美咲の声に、一花は我に返った。


「……うん」


小さく頷きながらも、胸の奥ではざわめきが止まらない。


(なんでやろ……。ただ走ってるだけやのに、かっこよかった)


一花は笑顔を作り直し、友達との会話に戻った。


でも胸の奥では、黒いバイクと少年の姿が静かに残っていた。


一方、交差点を抜けた恭平は深く息を吐いた。


顎ひもをきつく締め直す。


(気のせいかもしれへん。そやけど……確かに、あの目は俺を見てた)


夕暮れの風が頬を撫で、胸の奥で小さな熱を揺らした。


二人の距離は、まだ遠い。


けれど――春に芽生えた印象が、再び色濃く息を吹き返していた。

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