フライパンで出来る臨界恋
奈良まさや
第1話
◾️第一章 香りの向こう側
——料理ってのは、愛と欲の中間でしか作れねえんだよ。
金属のスプーンを舐めながら、
葛城真司は笑った。
白いシャツの袖口に、乾ききらない赤茶の染み。
新宿の雑居ビル五階。
元はフレンチの厨房だった部屋。
壁一面に、銀色のフライパンが掛けられている。
窓際の段ボールには、印字がある。
FLY-PAN type γ(ガンマ) ¥5,000,000/unit
五十個。
在庫総額、二億五千万。
誰にも知られない、夜の決断だった。
⸻
数か月前まで、彼と里崎は同じ会社の訪問販売員だった。
爪切りを売り歩き、汗と拒絶の毎日を過ごしていた。
ある夜、葛城が言った。
「爪を切るより、人の“欲”を削る商売をしよう」
冗談だと思った。
だが今、目の前にある。
⸻
このフライパンには、奇妙な仕掛けがあった。
具材を入れれば、火も使わず調理が進む。
味の濃さも自動で調整される。
——そして、三段階の中毒性。
第一段階「快感」
第二段階「渇望」
第三段階「恋」
食べた者は、作り手を愛してしまう。
⸻
最初の実験は、静かに始まった。
モデルの女性がリゾットを口に運ぶ。
隠し味は、数滴の血液。
「料理ってのは、魂を煮る行為だろ?」
最初、彼女は眉をひそめた。
だが、すぐに表情が変わる。
頬が熱を帯び、唇が震える。
「……もっと、食べたい。あなたの味を」
その声に、葛城の口角が上がった。
⸻
「売れるな」
彼は手帳を開いた。
ターゲットリスト——政治家、資産家、芸能マネージャー。
“誰かを愛させたい人間たち”。
そして裏メニューもある。
中毒リミッターのない試作品、type γ experimental。
それが、最初の「愛のフライパン」だった。
⸻
◾️第二章 試食会(テイスティング・ナイト)
——数週間後。
六本木の高層ビル。
照明を落とした会場に、
銀のフライパンが整然と並んでいる。
葛城は黒のタキシードを纏い、ワイングラスを傾けた。
「諸君、料理の未来は“愛”だ。
だが、愛は供給が難しい。
我々はそれを、再現できるようにした。」
ざわめきと拍手。
スポンサーの東堂が微笑み、隣の女性に視線を送る。
料理研究家・佐伯令子。
彼女は銀のスプーンを持ち、
香りを吸い込んだ瞬間、わずかに目を見開く。
——甘く、どこか銅の匂い。
——鼻の奥に、生々しい余韻。
「……うそ。なんて、美味しいの……幸せ……」
そのまま、令子は静かに椅子の上で崩れ落ちた。
グラスが割れ、悲鳴が上がる。
葛城だけが、動かない。
「……救急車を呼べ。写真は俺が管理する。」
⸻
三日後、ニュースは騒然とした。
「高濃度の未知成分」「人工的快感物質の可能性」
SNSでは、“中毒フライパン”の噂が拡散していた。
里崎は、ニュース映像を見つめていた。
まだ鼻の奥に、あの香りが残っている気がした。
携帯が震える。
発信者:葛城真司。
「売れたぞ。五十個、完売だ。」
「は……死人が出たんですよ!」
「死人が出たからだ。“危険なほど中毒に”ってキャッチコピーで投資家が殺到した。」
「あんた、人間じゃない!」
「そうだよ。俺は舌で世界を操る側の人間になった。」
通話が切れた。
机の上のチラシに、こう印刷されていた。
【新製品】FLY-PAN type δ(デルタ)
——愛と快楽を、合法に。
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