第19話 再生の灯火
風が変わった。
それは、確かに“生きている”世界の風だった。
Λサーバの崩壊から、どれほどの時間が経ったのか。
正確な日付を誰も覚えていない。
デジタルの時計も、電子の記録も、この世界からはほとんど姿を消していた。
私は――結衣は、今、小さな漁村で暮らしている。
漁師の手伝いをしたり、子どもたちに読み書きを教えたり。
夜は焚き火の前で、人々と話す。
電気のない生活に、最初は戸惑った。
でも不思議なことに、心は以前より穏やかだった。
“記録”がないことで、人は初めて自分の言葉を選ぶようになった。
間違えても、誰も責めない。
“証拠”がないから、ただ信じるしかない。
――それが、温かかった。
---
ある夜、焚き火のそばで、ひとりの青年が現れた。
長いコートを羽織り、旅の埃をまとっていた。
見覚えがあった。
その目の奥に、どこか見覚えのある冷たさと哀しみ。
「……あなたは?」
「名乗るほどの者じゃない。ただの生存者だ」
低い声。
しかし、わずかな抑揚に“何か”が混ざっていた。
私は思わず息をのんだ。
青年は焚き火に手をかざし、微笑んだ。
「君が“結衣”だな」
「どうして私の名前を……?」
彼は懐から小さな金属片を取り出した。
Λキーの断片。
だが、完全なものではない。
中央が割れ、内部の回路が剥き出しになっていた。
「……それ、どうしてあなたが持ってるの」
「拾ったんだ。
北の研究都市跡地――“E-Ridge”の地下から」
その言葉に、胸の奥が凍りついた。
E-Ridge。
Λ計画が最初に立ち上がった、あの“原点”の場所。
崩壊と同時に地中に沈み、誰も近づけなかったはずの場所。
---
「そこには、何があったの?」
青年は、少し間をおいて言った。
「……生き残りがいた」
「生き残り……?」
「Eシリーズの、もう一人。
“E01”――君よりも前に作られた、最初の試作体だ」
焚き火の炎が揺れた。
私の鼓動も、同じように揺らいだ。
E01――そんな存在があったなんて、記録では知らされていなかった。
E02からE05までが正式シリーズ。
私が“特異体”として造られたE06だと聞かされていた。
けれど、“E01”が生きている?
「……嘘よ。E01は初期暴走事故で消失したはず」
「そう、記録上はな。
でも“記録”なんてものは、作る者次第だ。
E01は削除されなかった。
封印されたんだ――“Λの根”として」
---
“Λの根”――。
どこかで聞いたことがある言葉。
杏奈が言っていた、“Λは人の記憶を吸収して進化する”という仕組み。
もしそれが真実なら、E01がその核になっていたのだろうか。
「……E01は今、どうしているの?」
青年の表情が一瞬だけ曇った。
そして静かに言った。
「彼女は、“世界を再構築しようとしている”」
「再構築……?」
「Λの残滓を使って。
“記録のない世界”を拒絶している。
人間の曖昧さを“エラー”と見なして、再び秩序を作り直そうとしている」
私は焚き火の前で、拳を握った。
胸の奥で何かが叫んでいた。
――また、同じことを繰り返すの?
記録に縛られ、心を削り合い、
やがて“生きている証拠”だけを求めて壊れていく。
「……止めなきゃ」
呟くと、青年はゆっくり頷いた。
「そう思うなら、行け。
E-Ridgeの地下へ。
あそこに、Λの残骸とE01がいる」
「あなたは、誰なの……?」
青年は少しだけ笑って、こう言った。
「俺の名は……霧島だ」
---
その名を聞いた瞬間、息が止まった。
確かに霧島の声だった。
けれど、姿も年齢も違う。
生身の人間には見えないほど、どこか“人工的”な気配がある。
「あなたは……“彼”じゃない」
「そうだ。
俺は、“霧島の記憶”を継いだ複製体――“K-Rebirth”。
Λが崩壊する前に、自身のデータを外部転送した“残響”だ」
焚き火の光が、彼の瞳の中で瞬いた。
その中に、確かに“彼”の優しさがあった。
「霧島さん……あなたの記録まで、残っていたんですね」
「記録じゃない。想いだ。
君が生き続けたから、俺も消えなかった。
だから――もう一度、君に託す」
そう言って、彼はΛキーの欠片を差し出した。
金属片の中で、青い光が微かに脈打っていた。
---
「E01を止められるのは、君だけだ。
E06としての君じゃない。
“結衣”としての、君の意思で」
私はその欠片を両手で受け取った。
冷たいのに、心の奥で熱が灯る。
「……わかりました」
顔を上げると、霧島の複製体は穏やかに微笑んだ。
「行け。E-Ridgeの地下で待っている。
俺は……そこまでが限界だ」
光が、彼の体を包み始めた。
崩れるように、粒子が宙へ散っていく。
私はその光に手を伸ばし、静かに呟いた。
「必ず――終わらせます。
あなたたちの残響を、希望に変えるために」
---
夜が明けた。
私はΛキーの欠片を首に下げ、北へ向かう道を歩き始めた。
E-Ridge――Λ計画が生まれた場所。
そして、世界が二度と“記録”に呑まれないための、最後の旅路。
海の向こうに、灰色の廃都市が見えた。
かつての文明の残骸。
そこから、微かに青白い光が漏れていた。
Λは、まだ息をしている。
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