第7話 嘘の婚約者

 ――氷室真司は、死んでなんかいない。


 杏奈の言葉が頭の中で反響する。

 まるで脳の奥に棘が刺さったように、痛みがじわじわ広がっていった。


「何を言ってるの、杏奈……。氷室さんは確かに死んだ。

 私、この目で見たのよ。遺体を、触った」

「それでも、彼は生きてる。私は……昨日、見たの」

「昨日?」

「久我部さんが殺される前。

 廊下の奥で、誰かが影のように動いてた。

 執事服に似た黒いスーツ、左足を少し引きずってた。

 氷室さんよ、間違いない」


 私は片桐を見た。

 彼は黙ったまま、考え込んでいる。

 薄い唇の端がかすかに震えていた。


「……氷室が生きているとしたら、彼は何のために姿を消した?」

「わからない。でも、あの人は祖父の一番の側近だった。

 祖父が“何かを隠していた”なら、氷室も知ってるはず」


 杏奈が低く呟く。

「もしかしたら、全員を館に集めたのは彼かもしれないわ」



---


 私たちはリビングを出て、再び廊下を進んだ。

 霧のような湿気が漂い、壁のランプがゆらゆらと揺れている。

 館の奥――書斎へ向かう途中、片桐が不意に立ち止まった。


「結衣。……俺に聞きたいことがあるんだろう?」

 その声に、私は息を詰めた。

「どうして、そう思うの?」

「お前の目を見ればわかる。

 俺に対してずっと何か引っかかってる顔をしてる」


 私はゆっくりと口を開いた。

「……婚約のこと。

 私たちの婚約は、いつ、誰が決めたの?」


 片桐は一瞬だけ表情を固めた。

「……それは、君のお祖父さんだ。神ノ原朔弥が」

「嘘よ。祖父はそんな話、私に一度もしてない」

「当然だ。これは“表向きの婚約”だった」

「表向き……?」

「神ノ原財団の資金の流れを調査するため、俺は内部監査の名目で財団に潜り込んだ。

 だが、当主の孫――つまり君と婚約している形にすれば、調査がしやすかった。

 ……いわば、偽装だ」


 言葉が出なかった。

 あの笑顔も、あの優しい言葉も――すべて“偽り”だったの?


 私は喉の奥が熱くなるのを感じた。

「私を……利用してたの?」

「違う! 本気になったのは途中からだ。

 だが、最初は任務だった。……俺は、警察庁の特別捜査官だ」


 耳を疑った。

「警察……? じゃあ、霧島刑事も?」

「霧島は俺の上司だ。

 だが、あいつが突然連絡を絶った。

 氷室を追っている途中で、何かに気づいたのかもしれない」


 私は震える声で言った。

「つまり、あなたは祖父の不正を調べていた。そして、氷室も同じ目的で動いていた……」

「そうだ。だが、氷室は途中で消えた。

 俺たちの上層部も彼を“死亡扱い”にした。

 だけど……生きてるなら、すべての鍵は彼が握ってる」


 その時、廊下の奥から微かな音がした。

 カチ……カチ……。

 懐中時計を弾くような金属音。


 私たちは息を殺して、音の方へ進んだ。

 曲がり角の先――壁際の鏡の前に、誰かが立っていた。

 白髪の混じる黒髪。

 片手に銀の懐中時計を持ち、ゆっくりと時を刻んでいる。


 氷室真司だった。


 彼はゆっくりと振り向いた。

 その顔は、死体のように青白く、だが確かに生きていた。


「……久しいですね、結衣様」


 声が静かに、闇を裂いた。

 私は言葉を失った。

「どうして……生きてるの……? あなた、あの日――」

「“死んだ”ことになっていた方が都合が良かったのです」

 氷室は淡々と言った。

「あなたの祖父は、自らの罪を告白しようとしました。

 ですが、財団の中にはそれを望まぬ者がいた。

 その一人が、あなたの“婚約者”です」


 私は片桐を見た。

 彼は即座に反論した。

「待て、俺は――」

「黙れ!」

 氷室の声が鋭く響いた。

 その手に小型の拳銃が握られていた。

 黒い銃口が片桐を狙う。


「あなたが制御室に残したアクセス記録、すべて確認しました。

 “透”の名義で館の防犯システムを改ざんし、当主を殺害したのはあなたでしょう?」

「違う! 俺の名を使った奴がいる!」

「では、その“誰か”がこの館を操作して、死人を蘇らせたとでも?」

 氷室は冷笑した。


 私は叫んだ。

「待って! 銃を下ろして! まだ真相は――」


 その時、照明が一斉に消えた。

 闇の中で乾いた破裂音。

 銃声。


 耳をつんざくような音が響き、私は思わずしゃがみこんだ。

 杏奈の悲鳴。

 灯りが戻ったとき、氷室の手にはもう銃がなかった。


 床に倒れていたのは――片桐透だった。

 胸から血が滲み、彼の瞳が私を見つめていた。


「……信じて、くれ……結衣……」


 その言葉を最後に、彼の手がゆっくりと落ちた。

 部屋に静寂が訪れる。


 氷室は無言で銃を拾い上げ、低く言った。

「一人、消えた。残るは、四人」

 そして踵を返し、霧の中へと消えていった。


 私はその場に崩れ落ちた。

 嘘の婚約。

 嘘の死。

 嘘の館。


 この場所で、真実を語っている者は――もう、誰もいない。

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