影なき証人

るーく

第1話 闇に響く鐘

 夜の山は、まるで何かを拒むように沈黙していた。

 その静けさの中を、私を乗せた黒塗りの車がゆっくりと進んでいく。街灯は一本もなく、頼りになるのは車のヘッドライトだけ。道の両側には深い森が広がり、木々の影が獣のようにうごめいている。


 神ノ原館──。

 祖父の朔弥が建てた、古い洋館だ。

 今夜はその館で、祖父の七十歳の誕生日パーティが開かれる。


 祖父からの招待状を受け取ったのは、一週間前だった。

 「家族と、古き友人たちを集めたい。最後の晩餐になるかもしれん」

 そう書かれた文面に、私は少し胸騒ぎを覚えた。


 車が止まり、運転手がドアを開ける。

 見上げた洋館は、月明かりに照らされて不気味なほど静かだった。

 石造りの外壁には蔦が絡まり、長年の風雨を物語っている。玄関前のランプだけが、ぼんやりと私を照らした。


「お嬢様、お久しぶりでございます」

 出迎えたのは、執事の氷室真司だった。

 背筋をぴんと伸ばしたその姿は、まるで時間の流れから取り残されたかのようだ。

「氷室さん……久しぶりです」

「朔弥様がお待ちです。どうぞ中へ」


 重い扉が軋みを上げて開く。

 館の中は香水と古い木の匂いが混じり合っていた。大理石の床、天井に吊るされたシャンデリア。

 客たちのざわめきが遠くに聞こえる。


 祖父の誕生日に集まったのは、家族と親しい関係者、合わせて八人。

 私以外の顔ぶれは──。


 弁護士の片桐透。

 私の婚約者で、祖父の顧問弁護士でもある。

 その隣には、私の親友で記者の有栖川杏奈。

 祖父の人生を記事にしたいと言ってついてきた。

 そして、祖父の古い友人という二人の紳士──橘総一郎と久我部茂。どちらも財界では名の知れた人物だ。


 リビングに入ると、祖父が車椅子に座っていた。

 白髪は増えたが、瞳の光はまだ鋭い。

「結衣、よく来てくれた」

「おじいさま……体調は大丈夫なの?」

「この通り、まだくたばりはせんよ」

 祖父は笑ったが、その笑みの奥に、何か諦めのような影を見た気がした。


 食事が始まると、館の中は少しずつ温かい空気に包まれた。

 ワインのグラスが並び、古い友人たちは過去の話に花を咲かせる。

 けれど私は、どこか落ち着かなかった。

 誰もが笑っているのに、まるで舞台の上の登場人物のようで。

 この館に流れる空気は、異様に静かだった。


 午後八時を少し過ぎたころ、雷鳴が遠くで響いた。

 窓ガラスが震え、外の風が一段と強くなる。

 その瞬間──館の照明が一斉に消えた。


 暗闇の中で、誰かの悲鳴が上がる。

 「停電か!?」「誰か、明かりを!」

 混乱の声が飛び交い、私はテーブルに手をついて立ち上がった。

 懐中電灯を探そうとしたその時、廊下の奥から、鐘の音が響いた。

 ──ゴォン……ゴォン……。

 ゆっくりと、低く、まるで誰かの死を告げるような音だった。


 その鐘の音が止むと同時に、電気が戻った。

 だが、部屋の空気は一変していた。


 祖父・朔弥の姿がない。

 車椅子ごと、忽然と消えていた。


 氷室が真っ青な顔で叫ぶ。

「……朔弥様!?」

 全員が立ち上がり、館中を探し始めた。

 私は胸の鼓動を抑えながら、祖父の部屋へ向かう。


 二階の廊下の突き当たり。

 祖父の書斎のドアは半開きだった。

 私は息をのんで中を覗く。


 ──そこに、祖父はいた。

 椅子にもたれかかるように座り、口元に微かな笑みを浮かべて。

 けれど、その胸には深くナイフが突き立てられていた。

 血は一滴も流れていない。

 それが、余計に不気味だった。


 私は悲鳴を上げた。

 その声が館中に響いた瞬間、雷鳴が再び轟いた。


 後に、この夜の出来事は「神ノ原館殺人事件」と呼ばれることになる。

 そして私は、知らず知らずのうちに、その闇の中心に引きずり込まれていった。

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