蒼汰の杞憂希求

「よい、しょっと……ふぁあぁ、変わらないのです、この埃っぽさ」



「…………っ」



「へぇ……これはこれは」




 入学式の時にも連れてこられた、校庭の脇にぽつんと聳える集会所。



 200以上も座席が並んで、さながら田舎の映画館みたいなホールだと思っていたけれど……入口のすぐ上に、こんな場所があるなんて気付かなかった。所狭しと機器と椅子とが並んでいて、まるでひと昔前のUFOのセットみたい。薄暗い中でも機器たちのランプがチカチカと煌めいていて、……酷く、暢気な感想だけれども。



 幻想的で、近未来的で……息を呑む昂揚を、抑えられない。




「ここが音響ブース……ここの機器で設定を弄れば、マイクの音量やエコーのレベルを弄れるのです」




 ――――ついさっきまで、お姉ちゃんと久呂恵を舞台に立たせ、ピンスポットライトの位置を細かく調整していた甘茶さんが、ひょいと、縺れそうになる脚で前に出る。



 額の汗を拭いながら、椅子のひとつをずらし、ひと際異彩を放つ曲線……キノコのように生えているマイクを、ぽんぽん優しく叩いてみせた。




「BGMはカセットをそこの機械に入れれば、スピーカーから音が出るはずなのです。……演劇部以外に使う機会なんてなかったですから、今は、設定がどうなっているか分からないですが……そこも含めて全部、要調整なのです」



「ふぅん……ここからでも舞台、は、……むしろ丸見えか。へぇ、予想より遠いな」



「……紫苑ちゃん、聴いてるです?」



「私にその程度のマルチタスクができないとでも?」




 できたとしても、説明の最中を強硬突破して、ブースの外を覗き込むのはマナー違反なんですよ、紫苑さん。



 そんな近付かなくても、ここからでも十分見えるし。



 ……あ、お姉ちゃんがぶんぶん手ぇ振ってる。……あの人も大概暢気だなぁ。




「こうまで距離があると、四ノ宮紅実が台詞を飛ばしたとしても、我々ではカバー不可能、という訳か。……練習期間の短さを考慮すると、不安が残るな」



「そこは心配要りませんよ、紫苑さん」




 澱みないぼくの声に、紫苑さんは気怠げに振り返った。



 ……まぁ、普段のあの調子を見ていれば、不安になるのも仕方ないけど。




「お姉ちゃんが台本を憶え損ねるなんて、月が落ちてくるほどにあり得ないことです。ぼくが保証しますよ」



「……頼もしい信頼だな。まぁどの道、私にはカバーする術自体がないのだがね」



「ぼくもですよ。本番中は粛々と、自分の仕事をこなすしかないんです。――――そのために、まずは」




 目の前に並ぶ音響機器。スイッチ。レバー。ボタン。ツマミ。



 その役割を、程度を、加減を把握するのが、なによりの急務だ。




「……今は、入学式直後なのです。なので多分、ある程度の大人数には対応できる設定になっている……と、思う、のです。ただ……」




 ずらり、並んでいるのに並列ではない、各々好き勝手な位置で立ち止まっているレバーたちを眺めて、甘茶さんは少し顔を伏せた。




「……かどうか、とは、また違うかもしれない、のです。……面倒だとは思うですけど、でも、細かく数値を弄ってみて、声とかBGMとかSEとか、流してみてほしいのです。そしたら甘茶が、調節に来ますので」



「は? おい甘茶、そんなのスマホで連絡をくれればそれで――」



「甘茶は、これから久呂恵ちゃんと紅実ちゃんとで、台詞合わせとかに入るのです。あっ、でも分かんないことがあったら、すぐに呼んでくれて大丈夫なのです。――――じゃあ、よろしくなのですっ!」




 紫苑さんの至極尤もに聞こえる文句は、どうやらそもそも聞こえなかったようで。



 甘茶さんはてとてとと、見えるほどの灰色を蹴り上げながら、音響ブースを後にしていった。……ここの入口、建物の入口とホールの入口、その狭間の空間の隅っこにあるから、往復するなんて地獄みたいな苦行なんだけど――




「……慌ただしいな、あの娘は。文明の利器を頼ろうという発想はないのか」



「――今回の固定照明はともかく、音響はそんな単純でもないんですよ、紫苑さん」




 スカートのポケットから小さなノートを取り出して、現在の数値をメモっていく。音量、エコーレベル、スピーカーの角度。……再生ボタンを押してからのラグまでは、さすがに分からないか。後で試さないと。




「音の大きさ、響き方、高いか低いか、聴衆の規模。……事務的に式典をやるならまだしも、世界観を大事にする演劇において、音響の細かい調整は必須です。いくらステーキが極上でも、かけるソースが安いマヨネーズ単体では、台無しでしょう? ……経験者でないと分からない、肌感覚があるんでしょう。そこは、甘茶さんを頼るしかありません」



「……音量を1上げたとしたら、エコーのレベルも合わせて変動させるべきだと?」



「極端に簡潔な例を出すのなら、そういうことです」




 そして、各項目の数値たちは決して比例し合うものじゃない。なんなら『ナレーションの声』と『久呂恵の声』、それぞれで設定を最適に切り替える必要だってあるし、まずはその『最適』を探らなきゃいけない。



 数学じゃ導き出せない、数値の肌感覚。経験者ならではの勘。



 ぼくたち5人の中で、甘茶さんだけが持ち得ているもの。




「……お姉ちゃんは、台詞を飛ばしません」




 らしくもない、乱雑な文字。ノートが小さいからって、手に持って書いてるからって。



 こんな、後で読み返せるかも分からないような崩れた文字は、久々に書いた。




「……四ノ宮蒼汰?」



「お姉ちゃんが、オーディションで毎回弾かれるのは、。脇役なのに主役を喰うような名演をしてしまう。扱い切れなくなるって、分かっちゃうから毎回毎回、お姉ちゃんは敬遠されるんです。――――ただ、それは演技の話。『この学校での演劇』については、あのお姉ちゃんだって、まだ素人です」



「…………」



「同じ舞台に立ちはしますけど、久呂恵なんて演技については素人未満です。ぼくも、紫苑さんも同じでしょう? ……紫苑さんや久呂恵が、どれほどサポートに回ろうと、あの人にしかできないことが出てきてしまうのは、どうしようもないことなんです……」




 多分、本人が一番分かっている。納得もしている。仕方ない、とは思っていない。



 大事にしている演劇部が、理不尽に潰されようとしている現状、最も憔悴しているはずの甘茶さんが、誰よりも奔走し、駆けずり回る羽目になっている…………それは、とても、とても。



 ……歯痒い。悔しい。




「意外、だな」




 と。



 椅子のひとつへ乱雑に腰を下ろして、紫苑さんは埃の張ったスペースへ頬杖を突いた。




「四ノ宮蒼汰。貴様の入部届を、私は見た。読んだ。憶えている。入部動機の欄だ。貴様の回答は『お姉ちゃんと同じ部活だから』――――シンプルだったな。故に文句のつけようがなかった。……姉の、四ノ宮紅実のおまけで来た割には、随分と、気を揉んでくれているようじゃないか。我らが部長殿に対して」



「……甘茶さんも、お姉ちゃんも、『できる側』の人間ですからね。ぼくと、違って」




 毛量の増えてきたハーフツインが、振り向いた拍子に顔に当たる。



 顔も、髪型も、体型まで、ほとんどそっくり同じな双子の。



 四ノ宮紅実に対する、ぼくの、ささやかなコンプレックス。




「夢がある。目標がある。なりたい自分っていう像がある。……そこへひたむきに努力できるのも、ひとつの、才能です。紫苑さん、あなたも持ってるその才能が、ぼくには、欠けているんです。ぼくはほんのちょっと、人よりできることがあるだけの、凡人なんですよ」



「…………」



「そんな奴が、立ち止まって座り込んでしまう奴が――――前だけ見て歩き続けられる人を、邪魔する訳にはいかないでしょう?」




 できる奴は、できない奴の代わりに頑張る。


 できない奴は、できる奴の重荷にならない。


 それでやっと、対等だ。平等だ。隣に立って、笑っていられる。



 ――――できることを自覚してくれた、久呂恵と、同じように。




「だから、努力しますよ。劇を成功させるために――――甘茶さんの負担を、少しでも減らせるように」




 中学時代の、放送部の経験。……どの程度まで活かせるかは未知数だけど。



 劇を本番で成功させるには、甘茶さんに、限界を迎えさせてはならない。けど舞台上での練習は削れない。なら必然、ぼくのような裏方にかかずらせる時間を減らすしかない。



 ブース内でいくら数値を弄ろうと、その感覚は舞台上でしか分からない。



 だから、甘茶さんがバランスを見るべく来る回数を、最低限にするための、努力を。



 数式もなにもない、フィーリングだけの計算を――




「……それは、姉のためか? 四ノ宮蒼汰」




 と。



 まずは一度、入学式の設定のままで声を出すしかなくて……忸怩たる思いでマイクのスイッチを入れようとしたぼくに、紫苑さんは問うてきた。




「貴様が努力するのは、『姉のために頑張る』貴様自身のため、ではないのか? 貴様が……四ノ宮蒼汰が、そうでありたいと、願ったからではないのか?」



「…………紫苑さんは、いい作家になりますよ」




 一瞬だけ、納得しかけた。けれど、お姉ちゃんは言うだろう。『あたしを自分の人生の、言い訳に使ってんじゃないわよ!』と。



 どちらも正しくて、だから、ぼくには詭弁も正論も選べなくて。



 ただ、綺羅星の輝きを阻むのが間違いなことだけは、よく分かっているつもりだった。

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