一久呂恵の後ろ向きポジティブ
やっちゃった。
やっちゃった。やっちゃった。やっちゃったやっちゃったやっちゃったやっちゃったまたまたまたまたやってしまった。……やらかして、しまった。
「…………っ!」
「…………」
「……………………」
さっきまで薄暗かった、部室棟の角部屋。すぐ横は窓になっていて、逆側にはなにもない、広い板張りの部屋がある、変わった間取りだった。『会議スペース』だというここにはでも、大きなベニヤ板やよく分からない小道具たちが散乱していて、腰を据えられる場所はこの小さなテーブルくらいしか残っていない。
だから、その、要するに、嫌な言い方をすると。
……逃げ場が、ない。特にこんな、窓際に座らされてしまってはもう、隣の十六夜先輩を押し退けて押し通るしか、脱出の手段はなくって…………そんなこと、できる胆力がわたしにある訳がなくって。
軽挙妄動っていう、わたしを表すために作られたんじゃないかって愚行をやらかしたわたしは。
席に着かざるを得なくなって…………正面に、俯いて座る。
この演劇部の、部長であり、先輩、でもある……九重甘茶、先輩の方を、見つめざるを得なくなってしまった。
「…………!」
ぞわり、背筋が震える。反射的に左手が持ち上がって、せめてと心臓の辺りに手の甲を配置してしまう。
……ぷるぷる、震えている。甘茶……ううん、九重先輩は、号泣こそ止まったものの、それからわたしに顔を見せてくれない…………当、然、だよね。当たり前だ。わたし……わたしなんかに、盛大に泣いているところを見られたんだ。恥でしかない。本当ならわたしのことなんか、先輩特権でぶっ殺してしまいたいはずだ。それを、必死に我慢してくれている……。
……いい人、だ。優しい人。そして……きっと、頑張っている人。
っ――――だからこそ、余計でも余分でもわたしは、ちゃんと、わたしが悪いって認めて、謝らないと。
恥を掻かせてごめんなさいって……たとえ、赦されなくっても――
「っ……――――九重先ぱ――」
「紫苑ちゃん」
身体を、少し前に乗り出してしまった、丁度そのタイミングで。
九重先輩の、上擦った声が耳朶を叩いた――――癖で、わたしは口を噤んだ。
呼ばれた十六夜先輩、は――
「なんだ、尻軽」
頬杖をついて、指先で机を叩きながら。
……何故だか冷たく、吐き捨てるように応えていた。
「甘茶を……殺してください、なのです……!」
「チッ……私が犯人だと露見しないよう、準備万端整えてくれるのなら、喜んで」
長い、長い長い溜息を吐き出して。
十六夜先輩は……っ、わたし、の方へ、ぎろりと視線を向けてきた。
「っ……え、あ、……ぅ……す、すみ――」
「謝るな。……3度目だぞ、一久呂恵。私を狭量な猿共と同列に見るな、吐き気がする。――――甘茶も甘茶だ。この私が、群れて少数派を攻撃することでしか自我を確立できない低能な輩共から、
「よ、余計なこと言わないでほしいのですっ! うぅ……背は低いのに胸ばっかり大きくって、シルエットが変だって散々言われてるのですよっ!? 気にしているのですっ! 指摘しないでほしいのですっ!!」
って。
そんな、共感性に乏しい嘆きと共に、九重先輩はやっと、顔を上げてくれた。
テーブル、バンバン叩いて手が痛そうだけど……でも。
顔はもっと、痛々しいまでに、腫れていた。
眼元を中心に、真っ赤になっている……涙でかぶれたのと、何度もこすった摩擦に肌が負けちゃった証……よく見ればうっすらと隈すら浮かんだその眼は、その気がなくても、嫌な意味で、吸い込まれてしまうようで。
まるで、小さい子がずっとずっと、途方に暮れて泣き続けているみたいで――――
「…………っ!!」
ダ、メ……!
ダメ、ダメだ。今、間違えたばっかりじゃないか。繰り返すな。バカかわたしは。
相手は、先輩なんだから。
慰めようとか抱き締めようとか……そんな、失礼なことをしちゃ、ダメだ。思うことすら、ダメだ。ダメ、ダメ、ダメ、ダメ――――だから。
浮きかけた腰を、ガクガクと震えるのを堪えながら、座面へ、戻す――
「…………あ、ははは……変なところ、見せちゃったのです。えと……改めて、初めまして、なのです。一久呂恵ちゃん……で、いいのですよね?」
「っ!! はっ……は、い……」
九重先輩は、笑顔を繕ってわたしに声をかけてきてくれた。
それに、わたしは下手くそにしか返事できない。緊張で息が詰まって、恐怖で喉が引き攣って、まともに言葉を吐けなくなって……もう、何年になるだろう。
ジグザグで継ぎ接ぎなわたしの返答に、九重先輩はそれでも笑顔を崩さない。
「甘茶は、この演劇部の部長、九重甘茶というのです。……部長って言っても、部員は甘茶と、そこの紫苑ちゃんしかいないですから、消去法みたいなものですけどね」
「…………」
「いや本当……甘茶には荷が重いっていうか、プレッシャーが半端ないというのですか…………さっきは、ごめんなさいでした。あはは……ちょっと、なかなか部員が集まんなくって、内心押し潰れそうだったっていうか……先輩なのに、カッコ悪い姿、見せちゃったのです。幻滅、したですかね――」
「っ――――ごごっ、ご、め、んなさいっ!! すみませんすみませんっ!! すみませんでした、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……!」
「ふぇっ? く、久呂恵ちゃん?」
「…………」
額をテーブルにぶつける勢いで頭を下げ、謝る。謝る。赦しを乞う。
やっちゃった。やっちゃった。やっちゃったやっちゃったやっちゃったやっちゃった。またまたまたまたまたまたやってしまった。何度繰り返せば気が済むんだろう。そうやっていっつもいっつも、失敗ばっかりしてきたくせに。
先輩に、謝らせるなんて。
そんなの、ダメだ。絶対にダメだ。そんなことをさせたらダメなんだ。
相手が先輩なら、悪いのは絶対にわたしなんだから。
ぶつけ過ぎておでこが割れそうでも、眼鏡が喰い込んで眼球すら潰しそうでも、謝らなきゃ。謝らなきゃ。わたしが悪いんですって、ちゃんと態度で示さなきゃ。
でないと、じゃないと、また、また。
またわたし、もっとずっと酷い目に遭う――――
「なっ、なんで、久呂恵ちゃんが謝るですか? や、やめてくださいなのです! 頭割れちゃうのです! 久呂恵ちゃんが謝る必要なんて――」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!! わたっ、わたし、九重先輩が小さくって、可愛くってだから、先輩だって分からなくって、だから、その、い、いつも私、下級生の面倒とか、見るようにって、押しつけられてて、それで――――ごっ、ごごっ、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいっ!! 見た目で判断してごめんなさいっ!! 子供扱いしてごめんなさいっ!! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――」
「謝るな。――――実に、4度目だな、一久呂恵。仏の臨界点すら突破だ、おめでとう」
「う――――ぐぇっ!?」
我ながら不細工な、蛙でも潰したような声が出てしまう。後ろへと不意に引っ張られて、ジャージのジッパーが喉を締め上げる。
呼吸困難から逃げるように、腰を浮かす。
そしたら、わたしの、目線、誰もいないはずの、わたしだけの孤独な視点に。
紫色の煌めきが、ひらひらと舞っていて。
「っ……十六夜、先輩……」
「紫苑、でいい。先輩も不要だ。ふんっ、貴様のような自罰思考の、生贄慣れした成れの果てがなにを考えるかなど、想像に容易い。貴様の想い描くような『先輩』だと思われるのは、死んでも御免なんでな。――――そして、何度でも言ってやる。その愚かな脳髄が記憶するまで、何度でもだ。いいか、一久呂恵」
謝るな。
――――椅子に立った十六夜先輩は、そんな無理難題を何度も何度も、命令してきた。
……言っていることは、分かる。理解できる。でも……十六夜先輩が、いくら正しくったって。
わたしたちの生きるこの世界は、全然、正しくなんかなくって。
だから最初から、わたしの所為だって……認めて、諦めて、溜飲を下すための罰を受けるだけで済んでいる方が、まだ、マシ――
「正確を期そうか――――私と、この泣きべそ部長には、謝らなくていい」
「へ……?」
十六夜先輩……ううん、紫苑……さん? は、そんな、意味の分からないことを言ってきた。
え? え? ……え?
だ、だって、紫苑さんも、九重先輩も……上級生で、だから、先輩で、だったら、わたしは、わたしが、全部、全部悪くって――――そう、しないと――
「言ったはずだ。愚者は常に狭量で、群れて価値観を共有し、そぐわない者を排除することでしか安寧を得られないと。……私も甘茶も、言うなればそんな理屈で排除されてきた被害者の同盟だ。貴様の気持ちも、少なからず理解はできる。……今更、貴様を更に痛めつけようとは思わん。それは差し詰め、過去の自分に唾吐く愚行と同じだからだ」
「っ…………」
そういえば……ここに来る道中、ぽつぽつと紫苑さんは話してくれたっけ。
自分が演劇部にいるのは、元いた部活を追い出されたからだって。
……失礼かもって、詮索しなかったけど…………紫苑さんも、それに、部員のいない演劇部で部長をやっている、九重先輩も。
同病相憐れむ、なんて言ったら、不快に思うかもだけど、でも。
……こんなわたしを……憐れんで、くれたんだ……。
「――――大っ体!」
って。
ぱっ、と私の襟首から手を離すと、紫苑さんは椅子を蹂躙せんばかりの勢いで腰を下ろしてしまった。……宙吊りにされたみたいに直立したわたしは、どうすればいいのか図りかねて、やけに不機嫌そうな紫苑さんを見下ろすことしかできない。
「こんな『気弱』『自罰的』『卑屈』『高身長』とAIに入力したら出力されそうな後輩ですら放っておけないほど、これ見よがしにべそを掻いていた甘茶が全て悪い。甘茶が全裸の半歩手前程度には恥ずかしい痴態を晒していなければ、一久呂恵が慰めのハグに走ることもなかった。違うか? 甘茶」
「うぐぅっ!? ……て、的確に射抜いてこないでほしいのですが……紫苑ちゃん……」
「はっ。なんなら蜂の巣になるまで撃ち続けてやろうか? ただでさえ歳上には見えない容姿と言動をしている上に、幼児退行まで起こしていた貴様を、初見で上級生だと見抜けと? 無理難題だな。挙句、初対面の下級生にちょっと優しく抱かれただけで涙腺が崩壊、3ヶ月も放課後を共にした私ですら見たことのない大号泣を10分も続けたんだ。さぞや気分爽快だろうねぇ甘茶。ネタにしたいから感想を訊きたいが構わないよなぁ?」
「っ……し、紫苑ちゃん、なんか、怒ってるです……?」
「はぁ? 何故私が怒ると? 必然性が皆無だが? それともなにか? 自分が怒られるようなことをしたという自覚でもおありかなぁ? 演劇部部長、九重甘茶殿」
「その呼び方する時って、大抵イラついてる時なのですが――」
「――――あっ!! あ、の……………………ぇ、と……」
ふたりの視線が、声を上げたわたしに集中して…………押し、黙る。静々と、座る。
……また、やっちゃった。打開策がある訳でもないくせに、わたしは……見て、いられない。悪癖だ。自分でも分かってる。喧嘩みたいな気まずい空気に、単に、わたしが耐えられてないってだけ、なのに。
あぁ、本当、弱い。弱い。
背丈ばっかり伸びて伸びて、そのくせ竹みたいに、中身は空っぽ。
がらんどうの節と節の間が、お手製の気まずさで満ちていくのが分かって――
「……はぁ。すまない、一久呂恵。大人げなかった――――まっ、私もまだ子供なのだが」
って、だから。
紫苑さんが声を出してくれた時に、わたしはまた、掬い上げられた気がして。
背丈相応に重いこの身体が、少しだけ、軽くなったように思えた。
「……っ、…………」
「っふふ、無闇に謝らなくなっただけ前進、か。――――それで? 貴様はどうするよ。九重甘茶」
って、問われた九重先輩は。
ぐしぐしと、涙の置き土産をこすり取りながら、首を傾げた――――あぁ、そんなことすると余計に赤くなっちゃうのに…………って、思って、いいん、だよね? 先輩、だけど……失礼、には、ならない、でいいの、かな……?
…………慣れない、むず痒い。仄かな罪悪感が燻ぶり続ける。
けど、そんなの知ったこっちゃないってばかりに。
紫苑さんは、どんどんと話を進めていく。
「門外漢の私が外を駆けずり回ってきたというのに、貴様は現状を嘆いて終わりか? 同情を引いて押し流してお終いか? それが、貴様のいつも話している、百瀬黄羅星の望む部長の姿か?」
「っ…………紫苑ちゃん、性格悪いのです……!」
「はっ、作家なんてそんなものさ。倫理観を期待する方がどうかしている」
「風評被害なのです……――――こほん。……久呂恵ちゃん、あなたは……演劇、興味あるですか? 演じる側でも、裏方でも」
「ぁっ…………」
問われて……固まる。『思わず』じゃない。想定していた必然だ。
興味……正直、分からない。けれど多分、わたしなんかには無理だ。力なら有り余ってるけど、手先は不器用だし、自分で物語を考える能もない。演者なんて以ての外だ。大勢の観客を前にして台詞を読み上げて、決められた動きをこなすなんて、わたしから見たら超人技に他ならない。
でも……紫苑さんが招いてくれた、この『避難所』。あのまま体育館にいたらきっと、もっと酷い目に遭っていたわたしを助けてくれた紫苑さんの前で。
演劇なんか無理だなんて、そんなの、とても言えない……。
「……もし、もしなのですけど」
うじうじと迷って、悩んで、口ごもっている鬱陶しいだろうわたしに。
九重先輩は、少し寂しげに微笑みながら、続けてくれた。
「他に、入りたいって部活がなかったら……演劇部に、入ってもらえないですか? ……そこの紫苑ちゃんみたいな、人数合わせの幽霊部員でも、全然、構わないですので」
「ぇ……?」
あ……そう、いえば。
――『私は十六夜紫苑、演劇部という緩い場所で幽霊部員をやっている』
紫苑さんも、自分を幽霊部員って言ってた…………でも、なんで……? 紫苑さんは、九重先輩に部長としての振る舞いを求めているし……演劇部であること自体には、意味がありそうなのに。
なんで、人数合わせなんか――
「……わ、たし……演技とか、全然…………それで、も、ですか……?」
「あはは……勿論、興味持って打ち込んでくれるなら、それが一番嬉しいのですけど……この部活、最低人数を現状割っちゃってるのですよ。だから最低限、存続させるためにも頭数は必要って感じで…………あはは、重ね重ね、情けないのです……」
いてくれるってだけでもいいですし、放課後に駄弁る場所に使ってもいいですから。
他に行くところがなかったら…………どう、ですか?
――――わたしはこの時、初めて現実を、いい意味で疑った。
いい、の? 本当に? こんな……わたしに都合が良過ぎる条件が、揃い踏みしていいのだろうか。なにか、なにか重大なバグが隠されていないか、逆に不安で心音がうるさかった。
いるだけでいい。
ただ、入部すればいい。在籍していればいい。そこにいればいい。
……たったそれだけでいいの、なら……わたし、こんなわたしでも、役に、立てるかも……!
そう、思うと、この心拍も、薄い胸を弾ませる鼓動も、なんだか心地よくて。
固まっていた表情筋がほぐれていくように、口角が吊り上がる。
「…………分、かり、ました……」
「っ、え、あっ――――ほ、本当っ!? なのですっ!?」
身を乗り出してきた九重先輩は、充血した目をそれでもキラキラ輝かせていて。
……あぁ、よかった。ほっとする。胸が、温かい。多分……これが、嬉しいってこと、なのかな。
こんなわたしでも、人の役に立てるなら。
ただここにいるだけ、たったそれだけでいいのなら。
わたしなんかでも、できる、はず。
「……よろしく、お願いしま、す。九重先輩。……紫苑さん、も」
「こちらこそなのです久呂恵ちゃんっ!! あぁ、甘茶のことも甘茶って呼んで構わないのです! 先輩も堅苦しいからなしで! 紫苑ちゃん、紫苑ちゃん紫苑ちゃん紫苑ちゃん紫苑ちゃん! やっと、やっと新入部員確保なのですよっ!! 部の存続に希望の光が灯ったのですっ!! 紫苑ちゃんにもありがとうなのですっ!!」
「大袈裟に煩い奴……確かに目出度いが、部の最低規定人数は5人だ。あとふたりも足りないぞ。……前に見学に来た、あの赤青の双子。あれを逃がしたのは致命的だったんじゃないか?」
「うぐぅっ……そ、それは確かに――」
跳び上がらんばかりに喜んでくれる九重……ううん、甘茶、ちゃん、と……あくまでクールな紫苑さん。取り敢えず、歓迎してくれていることは素直に嬉しかったけど。
すぐに、そんな感傷は吹き飛ぶことになる――――文字通りに。
何故なら、聞こえていた限りではノックの音も、ドアノブを捻る音もなかったのに。
――――突然、あの建付けの悪い扉が壁から外れ、吹っ飛んできたのだから。
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