第18話 咸陽奪還
まえがき
本題に入る前に、このシリーズで間違ったことがあったのに気づいた。
『時間軸と登場人物』(https://x.gd/x5Ia1)の登場人物にあるように、
女(実在)2
女(架空)15
男(実在)19
宦官(架空)3
の総勢39名という大軍勢となっていて、こりゃあ、壮大なアンアン物語、くんずほぐれず、女+男、女+女、男+男、宦官BLになる!と考えた。
考えたのだが、間違った。歴史を変えないといけないのだ。だから、三話に一話、下手すると二話に一話はまともな編年体の歴史小説を書かないと、歴史が変わらないということに遅まきながら気付いたのであったのであった。やれやれ。
仕方がないが、今回はアンアンが出ない。せっかく、羌瘣をモデルの羌族の女九ノ一部隊を創作して、閨房の術でアンアンさせようと思ったのに、戦闘場面で閨房の術を使うわけにも行かず、真面目に書いてしまった。しかも、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』で数百字書いて端折った三秦攻略、咸陽奪還をまともに四千字書いてしまったのであったのであった!
とまあ、これで『巴蜀・漢中編』は終わり!パチパチ!
次からは、劉邦が漢中、秦の旧領を抜け出し、項羽と対峙する『中原編』(中原は、中国の黄河中・下流域の平原で歴代王朝が支配した地域、秦の旧領は辺境地だった)の始まり!で、アンアン話が書ける!
三秦攻略
紀元前206年秋
漢は巴蜀から出て、漢中、咸陽を奪還する準備を始めた。まず、韓信は、三秦(雍王・塞王・翟王)を順次破る作戦を劉邦に進言した。
蕭何や周勃・曹参・樊噲・灌嬰・夏侯嬰などの沛県出身の劉邦の初期からの部下の武将たち、軍師の張良、韓信の部下の靳歙などと何度も会議をもった。
会議は成都の臨時軍営で開かれた。沛県出身の将官たちは、劉邦の幼馴染みとして忠誠心は篤いが、軍略に明るくない者も多かった。
周勃は力強いが戦略より肉弾戦を好み、「敵をぶちのめせばいい」と豪語している。曹参は経験豊富だが慎重で、「兵力差が大きすぎるじゃないか!どうやって勝てばいいんだ?三万対十万だぞ!」と懐疑的だった。樊噲は、「十万の敵に三万で挑むとは無謀だ!」と反発した。灌嬰と夏侯嬰は補給や兵站に懸念を示し、「蜀の道が険しすぎる。兵が半分潰れるぞ」と警告した。
これに対し、韓信は「『明修棧道、暗渡陳倉』の策を採用しましょう。表向きは蜀の棧道を修復し、敵の目を北へ向けつつ、陳倉の山道から奇襲をかけるのです」と冷静に提案した。
張良が補足し、「項羽の三秦は傲慢で、章邯以下、守備が手薄です。雍王が『明修棧道』で油断して、陳倉から攻める韓信殿の案は実に良策ですよ」と韓信の策を支持した。靳歙も同意し、「斥候を増やし、敵の動向を逐一報告しながら慎重に陳倉から進軍すれば、敵が十万でも勝てると思います」と沛県組を説得した。
沛県組は不満を漏らしながらも、韓信と張良の論理に押し切られた。
成都、韓信の邸宅
紀元前206年10月
秋の風が岷江の水面をさざめかせ、成都の田畑に稲穂の匂いが漂っていた。韓信の邸宅は、版築の壁に囲まれ、竹の門が秋の日差しに映えた。韓信は案机に向かい、秦の地図を広げた。その地図には、項羽が関中を三分割し、雍王章邯、塞王司馬信、翟王董翳に与えた三秦の配置が記されていた。
韓信は竹簡を手に、地図を睨んだ。陳倉の険しい山道が目に留まった。「漢の寡兵だから、ここを抜いて奇襲するしかあるまい」と呟いた。
項羽側の三秦軍は十万を超えていたが、韓信の兵は、咸陽を失った後、数多くが蜀の桟道で転落死し、奪略者も多数に上り、巴蜀での徴募兵を加えてもわずか三万であった。
しかし、寡勢でも勝機を見出す策があった。
「明修棧道、暗渡陳倉」
表向きは蜀の棧道を修復し、敵の目を欺くのだ。真の主攻は陳倉の奇襲だった。韓信の胸に火が灯った。雍王章邯、塞王司馬信、翟王董翳の無能、項羽の傲慢を打ち砕く好機だった。
※作者が長崎弁の翻訳を面倒くさくなっただけ……
韓信は地図から目を離さず、微笑んだ。「
「策って何ね?」韓信は地図を指で叩いた。「陳倉を奇襲し、雍王をまず倒すんだ」
成都から蜀の桟道までは約200里(約100km)、険しい山岳地帯を縫う細道で、崖崩れや転落の危険が常につきまとう。
一方、陳倉道は蜀の桟道から北へ約150里(約75km)離れ、隠れた山道を通っている。蜀の桟道を修復する大規模な動きを見せることで、雍王章邯の注意を南へ引きつけ、陳倉道の静かな進軍を隠す策だ。これが奇襲の鍵となり、敵が陳倉の裏門を無防備にしていた隙を突く戦略だった。
五女忍隊の活躍
紀元前206年11月
陳倉の戦いの準備が進む中、韓信は
奇襲の前夜、月葵は雍王章邯の斥候を尾行した。茂みに隠れ潜んで斥候の会話を盗み聞きし、章邯軍の守備の配置がわかった。その守備の甘さを把握した彼女は、韓信に報告した。「敵は油断しています。陳倉の裏門が無防備です」と進言した。
戦闘開始後、風雀と麗羊は敵の補給線に潜入した。風雀の機敏な動きで斥候を倒し、麗羊の弓の精度を活かした遠距離射撃で警報を防いだ。彼女らは斥候を締め上げ、補給ルートの詳細を聞き出した。韓信はこれを基に補給を断ち、敵を混乱させた。
瑠花と蒼鹿は前線で活躍した。瑠花は屈強な腕で敵将を拘束し、「隠してることは?」と脅して降伏を迫った。蒼鹿は冷静に敵の陣形を観察し、剣術で突破口を開いて、降伏を加速させた。
韓信は五人の活躍に頷いた。
陳倉の戦い
紀元前206年12月
蜀の棧道は崩れ、兵士たちが汗と泥にまみれた。韓信は表向き、棧道の修復を命じていた。
だが、雍王章邯の斥候が監視する中、夜の闇に紛れて三万の精兵を蜀の棧道とは別の陳倉の山道へ導いた。岩肌を這う兵士たち。松明の光が揺らめいた。韓信は先頭に立ち、崖を登った。
「遅れるな。敵が気づく前に動くんだぞ」兵士たちは息を潜め、足音を殺した。
夜明け前、陳倉の城門が破られた。雍王章邯の軍は油断していた。韓信の奇襲軍は雷鳴の如く襲い、秦の残党は混乱に陥った。
章邯は城内で剣を抜いた。「韓信、お前は旧主の項羽様に逆らうのか!」と叫んだ。韓信は「項羽の天下は終わるよ。章邯将軍、漢に仕えよ」と冷たく返した。追い詰められた章邯は膝をつき、降伏した。
雍の領土は漢の手に落ちた。韓信は勝利の報を劉邦に送った。成都の劉邦は、蕭何と案机を囲んだ。「韓信、ようやったな」と笑った。
後宮では、
咸陽の奪還
紀元前206年12月
韓信は雍を平定し、関中の東へ進軍した。塞王司馬信と翟王董翳の軍は、雍の敗報で士気を失っていた。韓信は咸陽の焼け跡を目指した。
関中の平野に漢軍の旗が翻った。かつては秦の将軍であり、項羽が関中を三分割した際に「塞王」として封じられた司馬信は、華陰で迎撃を試みたが、韓信は騎兵を先行させ、司馬信の補給線を断った。司馬信は戦わず降伏した。翟王董翳も泾河で抵抗を諦め、韓信に跪いた。
咸陽の城門が開いた。韓信は渭水の北岸の焼け残った咸陽宮に立った。瓦礫の匂いが鼻をつき、かつての都の栄華を偲ばせている。
渭水の南岸で、将来の漢の首都の長安城の南西にあたる場所に阿房宮はあった。去年、紀元前207年に項羽が咸陽を焼き払った後、阿房宮も項羽に破壊された。阿房宮は黒焦げの柱と崩れた瓦礫の山と化していた。黄金の装飾は溶け、瑠璃の窓は粉々に砕け、広大な庭園は荒れ果て、雑草が風に揺れていた。遠くには秦の始皇帝の霊廟が煙に霞んでいる。
※咸陽 :渭水の北岸に位置し、現在の陝西省西安市北西部。
阿房宮:渭水の南岸に位置し、長安の南西約15km。
長安 :渭水の南岸に位置し、現在の陝西省西安市中心部。
咸陽から南東へ約15km。
蕞(さい): 渭水の南岸に位置。秦の咸陽の手前の関所の都市。
同じ渭水南岸の長安から山岳地帯を越えた南西へ約55kmの位置。
『キングダム』合従軍編(第31~33巻)で登場。
┌──────────────────────────────────────┐
│ 咸陽(秦旧都) ← 北岸
│ (渭城区)
│ 渭水
│
│ 蕞(好畤) ← 南西40km → 阿房宮 ← 南西15km → 長安(漢新都)
│ (乾県) (秦漢新城) (未央区)
└──────────────────────────────────────┘
劉邦が到着し、「韓信、天下を取る第一歩だ」と手を握った。韓信は静かに劉邦の握った手を押し抱くと、「項羽を討つまでは、劉邦殿、休めませんぞ」と言った。
五女忍隊のさらなる活躍
紀元前205年1月
咸陽奪還戦では、五女忍隊が再び力を発揮した。風雀と麗羊は、翟王董翳の陣営に潜入した。風雀は、董翳の側近から「項羽の援軍は来ない」との情報を盗み聞きして、韓信に伝えた。これにより、翟王の抵抗が早々に崩れたのだ。
月葵と瑠花は、塞王司馬信の補給拠点を襲撃した。月葵が「黙れ」と敵将を一喝し、瑠花が力で押さえ込み、「言うまで離さん」と脅迫した。そして、補給ルートの詳細を入手し、韓信の騎兵が迅速に断ち切るきっかけを作った。
蒼鹿は、咸陽の焼け跡で敵の残党を説得し、降伏を促した。彼女の若さと色気で、数百の兵が武器を捨てた。韓信は「16歳の小娘の女の力がこれほど協力とは!」と感嘆した。
関中の安定化
紀元前205年2月
韓信は咸陽で治安を固めた。秦の旧民は漢に帰順した。韓信は秦の法令を簡略化し、民心を得た。苛酷な秦の賦税を減らし、土地の再分配を進め、農民の支持を確保した。
蕭何は、漢中の行政を再編し、食糧増産と補給路の強化に注力した。都江堰の灌漑を整備し、成都の稲作を拡大した。韓信は軍事力で山賊を鎮圧し、治安を安定させた。二人は協力し、関中を漢の基盤とした。劉邦は蕭何に咸陽を委ね、兵站を強化した。韓信は楚への進軍を計画しつつあった。
項羽の根拠地の彭城が次の標的だった。
彭城への進軍準備
紀元前205年春
韓信は咸陽で軍を再編し、劉邦に進言した。「項羽は斉で田栄と戦っています。彭城は手薄です」劉邦は56万の軍を率い、彭城進軍を決めた。
韓信は戦略を練った。「彭城を落とし、諸侯を糾合する」
彭城攻略に韓信の後宮の私と女たちを連れて行かせないように画策しないといけない。
それよりもその後だわ、と
そこから、歴史を変えるのだ。
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