第22話 運命の顕現


 幸太が桜庭家から完全に去ってから、数日が過ぎた。美月からの電話は、秋の夜長、俺が一人で残業を終えて帰宅した直後にかかってきた。


『賢太君、今、大丈夫かしら。少し、話したいことがあるの』


 受話器の向こうから聞こえる彼女の声は、驚くほど落ち着いていた。あの夏の日に聞いた、罪悪感と情欲に震える声とは違う。そこには、すべての軛から解き放たれた女の、静かで、しかし、揺るぎない覚悟のようなものが宿っていた。俺は、二つ返事で承諾し、再び、あの家へと車を走らせた。


 玄関のドアを開けると、家の空気が、以前とは全く違うものに変わっていることに、すぐに気がついた。幸太が支配していた頃の、息が詰まるような緊張感や、高価なオーデコロンの冷たい香りは、跡形もなく消え失せている。代わりに、美月が焚く白檀の柔らかな香りと、生活の温もりを感じさせる、穏やかな空気が家全体を満たしていた。偽りの王が去った城は、今、真の女王とその娘たちによって、本来あるべき姿を取り戻したのだ。


 リビングでは、美月が一人、静かに俺を待っていた。彼女は、ゆったりとしたワンピースに身を包み、その表情は、まるで聖母のように穏やかだ。俺の姿を認めると、彼女はゆっくりと立ち上がり、その潤んだ瞳で、俺を真っ直ぐに見つめた。


「来てくれて、ありがとう」

「……兄貴は」

「もう、いないわ。正式に、離婚が成立したの。この家も、財産も、すべて、私と娘たちに残して」


 その言葉は、淡々とした事実の報告だった。しかし、その裏にある、幸太の絶望と諦念の深さを思い、俺は言葉を失った。


「そうか」

 俺が、かろうじてそれだけを口にすると、美月は、ふっと、儚げに微笑んだ。そして、まるで、大切な宝物でも扱うかのように、俺の手を取ると、自らの腹部へと、ゆっくりと導いた。


「賢太君」


 彼女のワンピースの上から、柔らかな、しかし、確かな熱と、命の張りを感じる。それは、数週間前に、俺がこの手で触れた時とは、明らかに違う感触だった。硬く、そして温かい。その、わずかな膨らみの奥で、新しい命が、力強く脈打っている。その、あまりにも神聖な感触に、俺は息を呑んだ。


 驚愕と興奮が、電流のように、俺の全身を駆け巡る。まさか。本当に。あの夜の祈りが、届いたというのか。


「この子、あなたの子よ」


 美月の告白は、囁くように、しかし、この世の何よりも重い真実として、俺の鼓膜を震わせた。俺は、言葉を発することができなかった。ただ、その腹部の温もりを、その命の奇跡を、手のひらで感じ続けることしかできない。


 その時だった。リビングのドアが静かに開き、叶と望が、二人、寄り添うようにして入ってきた。その表情は、母である美月と同じように、穏やかで、そして、何かを決意した女の、強さを湛えている。


 二人は、俺と母が触れ合っている、その背徳的な光景を見ても、動じることはなかった。むしろ、それが、当然の儀式であるかのように、静かに、俺たちの元へと近づいてくる。


 そして、叶が、まず、俺のもう片方の手を、そっと取った。そして、母と同じように、その手を、自らの、まだ平坦な腹部へと導く。

「……私もよ、賢太さん」


 叶の腹部は、母のそれとは違い、まだ少女の硬さを残していた。しかし、その奥にも、確かに、同じ熱が、同じ命の息吹が、宿っている。俺は、信じられない思いで、叶の顔を見上げた。その瞳が、愛おしそうに、そして、誇らしげに、俺を見つめ返してくる。


 続いて、望が、俺の背中に、その華奢な体を、そっと預けるように、抱きついてきた。そして、俺の手を、自らの腹部へと持っていく。

「望も。望のお腹の中にも、賢太さんの赤ちゃん、いるんだよ」


 三つの温もり。三つの命。その、あまりにも奇跡的で、そして、冒涜的とも言える事実が、俺の脳天を直撃した。世界が、ぐにゃりと歪む。すべての音が、遠ざかっていく。俺の全身を、歓喜とも、恐怖ともつかない、激しい戦慄が駆け抜けた。


 俺は、神にでもなったような、万能感に包まれていた。俺の愛が、俺の血が、この三人の女たちの体内で、新しい命となって、今、芽吹こうとしている。それは、失われた愛の連鎖が、完全な形で再生されたことを意味していた。兄への罪悪感も、社会的な倫理も、すべてが、この至高の幸福の前では、色褪せた、取るに足らないものに過ぎなかった。


 俺は、ゆっくりと、三人の体を、その腹部ごと、すべてを包み込むように、強く、そして、優しく抱きしめた。

「……ああ」


 俺の口から、ただ、それだけの声が漏れた。しかし、その一言には、この運命を受け入れ、この四つの命、いや、七つの命すべてを、この手で守り抜くという、絶対的な覚悟が込められていた。


 腕の中で、三人の女たちが、安堵したように、その体を俺に預けてくる。美月の成熟した体の重み、叶のしなやかな体の弾力、そして、望の、まだ頼りない体の軽やかさ。そのすべてが、俺という一つの存在に、今、完全に委ねられている。


 俺は、この世のすべてを手に入れたのだと、確信した。偽りの家族は崩壊し、そして今、ここに、愛と血によって結ばれた、真実の家族が、産声を上げようとしていた。

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