第20話 虚構の崩壊


 望の衝動的な叫びが残した余韻は、リビングの空気をガラスのように砕き、修復不可能な亀裂を走らせた。幸太は、まるで時が止まったかのようにその場に立ち尽くしている。その表情からは怒りも悲しみも消え失せ、ただ、すべてを理解してしまった男の底なしの虚無だけが浮かんでいた。賢太。その名前が、彼の頭の中で呪いのように反響する。彼の完璧だったはずの世界に、弟という名の異物が侵入し、その根幹を腐らせていたという、おぞましい真実。


 美月は、目の前でゆっくりと崩壊していく夫の姿を冷たい傍観者のように見つめていた。恐怖も罪悪感ももはやない。彼女の心は賢太との再会と、その腕の中で三つの命を宿したと確信したあの夜に、とっくに幸太への妻であることをやめていたのだ。彼女は今、ただ自分と娘たちと、そしてまだ見ぬ子供たちを守ることだけを考える一匹の母獣だった。


 その日の夜、幸太は自室に閉じこもった。食事も摂らず、誰とも口を利かない。家の中は嵐の前の静けさのように、不気味な沈黙に支配されていた。美月と娘たちもまた言葉を失い、ただこれから訪れるであろう破滅の足音に息を殺して耳を澄ませるしかなかった。美月は眠れぬまま、ベッドの上で体を起こし、窓の外の闇を見つめていた。腹部にそっと手を当てると、まだ何の膨らみもないはずなのに、そこに確かな熱を感じる。賢太の命。この子を守るためなら、私は悪魔にでもなれる。その覚悟が、彼女の心を鋼鉄のように硬くしていた。


 翌朝、幸太は普段よりも早い時間に起きてきた。その目の下には濃い隈が刻まれ、その顔は一晩で十年も歳を取ったかのようにやつれている。彼は無言でリビングを横切ると、キッチンに置かれたゴミ箱を漁り始めた。その、あまりにも異様な光景に朝食の準備をしていた美月の手が止まる。ビニール袋をかき分ける、ガサガサという乾いた音が、静まり返った部屋に不気味に響いた。


 幸太の目的は明らかだった。彼は、あの日の美月の嘔吐と望の失言を結びつけ、確たる物証を探しているのだ。美月の心臓が冷たく脈打つ。どうしよう。あの検査薬は、確かにトイレのゴミ箱の奥深くに隠したはずだ。しかし、この男の執念深さの前ではそんな付け焼き刃の隠蔽工作など何の意味もなさないだろう。いや、もう意味などないのかもしれない。賽は、昨日、望の口から投げられてしまったのだから。


 やがて、幸太の手が何かを掴んで動きを止めた。彼がゆっくりとゴミ箱から引き上げたもの。それは、小さなビニール袋に入れられた白いプラスチックのスティックだった。美月が使ったもの、そして、叶が母に見せつけるために持っていたもの。二本の妊娠検査薬。その判定窓には三週間という時間が経過してもなお、二本の線が彼女たちの罪を告発するかのようにくっきりと浮かび上がっていた。


 幸太は、その二本のスティックをまるで汚物でも掴むかのように指先でつまみ上げると、ゆっくりと振り返った。その瞳はもはや何の光も宿しておらず、ただ黒く深い絶望の穴だけが口を開けていた。


「……これは、何だ」

 地を這うような低い声だった。一晩中考え続けたであろう、その声はひどく嗄れている。

「説明しろ、美月」

「ご覧の通りよ」

 美月はもはや隠すことをやめた。その声は驚くほど冷静で、そして氷のように冷たかった。彼女は、まな板の上のキュウリから視線を外さず、淡々と答える。

「妊娠しているの。私と、叶が」

「……やはりか」


 幸太は自嘲するように乾いた笑みを漏らした。そして、その二本の検査薬をダイニングテーブルの上に、叩きつけるように置く。カタン、という無機質な音が二人の間の決定的な断絶を象徴していた。


「誰の子だ」

 幸太の問いは怒りよりも、むしろ純粋な疑問に満ちていた。彼はこの十八年間、自分が築き上げてきたと信じていた完璧な家庭という名の虚構が、音を立てて崩れ落ちていくのをただ呆然と見つめている。

「まさか、本当に賢太の子なのか。お前だけじゃない。叶まで、あいつと……。なぜだ。なぜ、あいつなんだ。俺は、お前たちのためにこれだけ……」


 幸太の声が悲痛に震える。社会的成功者としてのプライド。夫としての、父としての自負。そのすべてが今、彼の足元で瓦礫となって崩れていく。彼は理解できなかったのだ。なぜ自分の妻が、自分の娘が、真実の愛を自分ではないあの頼りない弟に求めたのか。その理由が、彼にはどうしても理解できなかった。


 美月はそんな夫の姿を、冷たい憐憫の情を込めて見つめた。この人は、結局、何もわかっていない。私たちが本当に欲しかったものが、高価な宝石でも、広い家でもなかったということを。ただ、一人の人間として愛されたかっただけだということを。彼女は、包丁を置くと、ゆっくりと夫に向き直った。そして、最後の、そして最も残酷な真実の一片を彼に突きつける。


「あなたの子では、ないわ」


 その言葉は曖昧で、しかし幸太にとっては死刑宣告よりもなお重い絶対的な否定だった。誰の子かという問いには答えない。ただ、あなたの子ではないとだけ告げる。それは幸太という男の、夫としての、そして父としての存在価値の完全な否定を意味していた。


 その瞬間、幸太の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。彼は獣のような絶叫を上げた。それは悲しみでも怒りでもない、ただプライドが完全に粉砕された男の魂の断末魔だった。リビングの窓ガラスがびりびりと震え、その声は静かな住宅街の朝に虚しく響き渡る。彼はテーブルの上の食器を腕で薙ぎ払い、床に叩きつけた。ガシャン、というけたたましい破壊音。しかし、その暴力でさえ、彼の心の虚無を埋めることはできなかった。


 その絶望の叫びに対して、美月はただ冷たい沈黙で応えた。彼女の心はもはやここにはない。その視線は、幸太の崩れ落ちる姿を通り越し、窓の外の、賢太がいるであろう遠い街へと向けられていた。この対比的な静寂こそが、幸太にとっては何よりも雄弁な敗北の宣告だったのだ。

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