第9話 罪の香り
俺が三人の女たちに、この歪んだ愛の形を家族として受け入れるよう求めた、あの誓いの夜から数日が過ぎた。桜庭家は、表面上は何も変わらない、穏やかな夏の日常を繰り返している。しかし、その内部では、俺たち四人の関係性は、奇妙な安定と、そして常に破綻と隣り合わせの緊張感を孕みながら、新たな段階へと移行していた。もはや、母と娘、叔父と姪という古い役割は意味をなさず、俺という一人の男を中心とした、三人の女たちの共同体。それが、俺たちの新しい家族の形だった。
その日の夜、幸太が珍しく早い時間に帰宅するという連絡が美月に入った。その一報は、俺たちの築き上げた甘美な城に、現実という冷たい水を浴びせかけるには十分すぎるほどの衝撃だった。リビングの空気は一瞬にして凍りつき、さっきまで俺の膝の上で無邪気に笑っていた望の表情がこわばる。叶は、読んでいた本から顔を上げ、探るような視線で母親である美月と俺を交互に見た。
幸太が帰ってくる。それは、俺たちの祝祭の終わりを意味していた。偽りの夫、偽りの父が、その権威を取り戻すために帰還する。その事実が、最も重くのしかかっていたのは、間違いなく美月だった。彼女の顔からは血の気が引き、その手は微かに震えている。
「……そう。わかったわ。夕食、準備しておくわね」
電話を切った彼女は、努めて冷静にそう言ったが、その声はガラス細工のように脆く、今にも砕け散ってしまいそうだった。俺は、何も言えなかった。この状況で、俺が彼女にかけるべき言葉など、一つも見つからなかったからだ。
その夜、俺たちは三人で食卓を囲んだ。幸太の帰宅を待つ、息の詰まるような時間。誰もが口を閉ざし、食器の触れ合う音だけが、気まずく響いていた。やがて、美月は、限界が来たように、静かに席を立った。
「少し、気分が悪いから、部屋で休んでいるわね」
そう言ってリビングを出ていく彼女の背中は、あまりにも小さく、か弱く見えた。残された俺と叶、望の間を、重苦しい沈黙が支配する。
「……お母さん、大丈夫かな」
望が、不安そうな声で呟いた。
「大丈夫なわけ、ないでしょ」
叶が、吐き捨てるように言った。その瞳は、俺を責めるように、鋭く見据えている。
「あなたが、お母さんを苦しめているのよ」
「叶……」
「違うの!?あなたが現れたから、お母さんは……私たちは、こんな風になってしまった。私は、それでもあなたを選んだわ。でも、お母さんは違う。あの人は、幸太さんの奥さんなのよ」
叶の言葉は、正論だった。そして、その正論が、ナイフのように俺の胸を抉る。俺は、自分の欲望のために、この家族を奈落の底へと突き落とそうとしているのではないか。その罪の意識に、俺は初めて、身を竦ませた。
俺は、美月の後を追うように、二階の寝室へと向かった。ドアをノックしても、返事はない。そっと扉を開けると、部屋の明かりは消され、ベッドの上で、シーツに顔を埋めて嗚咽する美月の姿があった。そのか細い背中は、絶望の淵で、かろうじて身を支えているように見えた。
俺がベッドに近づくと、彼女は顔を上げた。その美しい顔は、涙と、そして後悔でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「来ないで……!見ないで……!」
「美月さん……」
「私は、なんてことをしてしまったのかしら……!あの人の妻なのに、あの人の弟と……!それだけじゃない、自分の娘たちまで巻き込んで……!私は、汚れた、最低の女よ……!」
彼女の体から発せられる、甘く熟れた女の匂い。その中に、塩辛い涙の匂いと、そして、彼女が自らの罪を自覚した時にだけ放つ、湿った愛液の匂いが混じり合っていた。それは、彼女の罪悪感が作り出す、むせ返るような、背徳の香りだった。その匂いが、俺の理性を狂わせ、彼女を慰めるのではなく、もっと汚してしまいたいという、黒い衝動をかき立てる。
俺が、彼女の体に手を伸ばそうとした、その時だった。
「お母さん」
部屋の入り口に、叶と望が立っていた。二人は、母親の無様な姿を見ても、驚きも、軽蔑も浮かべていない。ただ、その瞳には、深い同情と、そして、同じ男を愛する女としての、奇妙な連帯感だけが宿っていた。
二人は、静かにベッドへと近づくと、泣きじゃくる母親の両側を、そっと挟むようにして横になった。そして、何も言わずに、その体を、優しく、慈しむように、愛撫し始めた。叶は、母親の濡れた髪を、指で梳くように、何度も、何度も撫でる。望は、母親の冷え切った手を、自分の両手で包み込み、温めるように、そっとさすっていた。
それは、娘が母を慰める、ありふれた光景ではなかった。それは、同じ痛みを共有する女たちが、互いの傷を舐め合う、神聖な儀式だった。幸太への罪悪感に苛まれる美月。その美月を苦しめる原因である俺を愛してしまった、叶と望。三人の女たちの涙と愛液が混じり合った、罪の匂いが、部屋中に満ちていく。
美月の嗚咽が、少しずつ、穏やかな寝息へと変わっていく。娘たちの純粋な、そして倒錯した愛情に包まれて、彼女は、束の間の安らぎを見出したのだ。俺は、その光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。俺が創造しようとしている新しい家族の形。その、あまりにも歪で、しかし、抗いがたいほどに美しい、最初の光景が、そこにあった。
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