淡墨と弧桜 ~転生したら多夫多妻が常識の世界だった ~
仁
1 誠、生まれる
若くして亡くなるというのは決して縁遠い話ではない。病気や事故、はたまた自殺と。不幸話ならどこにでも転がっているもので、取り立てて騒ぐ程のことではなかった。
少年も、そのうちの一人である。ありふれたこと、彼が五歳になる頃父親の不倫により両親が離婚、その後女手一つで育てられていた。金はなく、無理をしてまで働き育てた甲斐があったのだろう、少しでも楽な暮らしを目指して少年は勉学に励み、有名大学へと進学を決めていた。
とりわけ頭が良かった訳ではなく、たゆまぬ努力の結果である。融通のきかない愚直さが持ち味の少年には勉強というものはさほど苦ではなく、一歩一歩着実に、堅実に物事を進め、点数というわかりやすい成果がモチベーションとなっていた。
奨学金を得て、あと少し、もう数年というところで運命のいたずらは起こるもの、今までの無理がたたり、親愛なる母親が体調を崩し倒れてしまったのだ。
成人ふたりが生きるためには大学の合間のバイトでは稼ぎが足りず、また社会制度にも疎かった彼が大学を休学したのは必然でもあった。昼間は建設現場で働き、夜はまだ健全寄りの風俗店でボーイとして給仕する。そんな身を壊すような働き方を二年と続けていた時だった。
「危ないっ!」
それは偶然が折り重なって出来た事故だった。上空でクレーン車が突風により傾いた、
目に飛び込んできたのは赤い鉄骨の雨、それがこの後どういう結果をもたらすか、考える間もなく少年の意識は刈り取られていた。
麗らかな秋の陽気、天高く緩い風が葉を紅く染め上げる。残暑が終わり冬に向けて肥ゆる、凪いだ空気を赤子の
突然の轟雷は留まるところを知らず、母親が抱きかかえ、背中をさすろうとも一向に収まる気配がない。発作にしては長く、あまりの激しさにむせて落ち着いたかと思えばまた泣き始める、何も口にせず不平不満を言うこともないのだから親としても対処のしようがなく、疲れ果ててようやく泣き止んだ時には母親共々泥へ沈むように眠っていた。
その翌日はどうなったかと言えば、今度は打って変わって静けさに満ちていた。泣かず言わず、焦点の合わない目は虚空を見つめ、まるでお釈迦様の悟りのようである。かろうじて排泄だけはするので生きていることに間違いはないのだが、魚類の方がまだ顔に感情が出る様子に、そろそろ病院へ連れていくべきかと母親が悩み始めていた。
さてはて、どうなってしまうのかと迎えた、さらに翌日のことである。寝ている我が子を置いて母親が部屋から外へ出た、せいぜい五分もない時間である。その間に生後一年にも満たない赤子は起き上がり、短い足を不器用に組んで座っていた。それ自体はさほどおかしなことではなく、いや若干気持ち悪い程度ではあるが、半目は下を向き芋虫のような指の生えた手は膝の上で柔く握られている。
赤子にその意思があるかは別として、部屋に戻り見た我が子の佇まいに、母親は反応に困っていた。
ともかく、と母親は赤子の元へと不用意に近づいていた。ここ二日まともに食べ物を口にしていないのだ、起きて、意識がはっきりとしているならば少しでも胃に栄養を入れなければならないと、子を持つ親としての使命が身体を突き動かしていた。
驚いたのは赤子だけではない、母親もまさか子供からそんな表情が飛び出すなど思いもよらず、しばらくは睨み合いとなっていた。この数日で可愛い我が子から可笑しな子とランクダウンしてなお、まだ印象は下がり始めていた。
そんななか、先に静寂を破ったのは赤子のほうだった。といっても先日のようにまたわんわんと泣き喚くわけではない。じっと見つめ合った後、軽く小首を傾げる行為をし、
「……ろなたれしゅか?」
思えば意味ある言葉と発したのが初めて、それもよくあるパパママではなく、舌足らずながら何かしらの意図を伝えんとしたのはわかったのだが、いかんせん声も小さくはっきりとした言葉になっていなかったため、意味を汲み取ることまでは出来なかった。
頭の上にはてなはてなと疑問符を浮かべた母親は、ひとつ天啓を得る。これが質の悪い病気であるかどうかを判断する術が自分にないのならば、とりあえず初志貫徹、病院へ行き医師の先生に診てもらうというものだった。
小児科にて診察の結果を待つ間、赤子は自分の置かれた環境を今一度思い返していた。
生後十か月、歳相応の見た目と相反する思考能力。理由は皆目見当もつかないが前世の記憶があり、そのことに気付いたのが一昨日のことだった。
気分は最悪だった。まだまともに考える力のない幼き脳みそに二十余年分の記憶と経験が叩き込まれるのだ、メキメキと脳の神経が複雑に絡み合う幻聴を聴き、考えることをやめようにも湯水の如く溢れてくる体験が襲ってくるせいで悲鳴をあげることしか出来ずにいた。幸いなのが一晩眠ればそれなりに適応出来たことだったが、なにぶん先日まではほとんど本能で生きていたのだ、今世の未熟な人格は
そもそもあったのかすらわからない人格の消失に悩むことはなかったのだが、前世の最期、不注意による事故死の印象が強く残っていた。それだけでも心臓を
家で寝たきりとなっている、母親のことである。
前世の母は今、ろくな収入がないのだ。トイレや入浴などはひとりで行えるにしても、自立して生きていける状態ではなかった。そんな彼女の元へ
最愛の人、恩をまだ返しきれていないというのに返す術を無くしてしまった。最低の親不孝者という自責の念にかられ、心を病み思考を止めること丸一日、赤子は崩れゆく精神の中で唯一の希望を見つけていた。
自分が死んでからどれほど経過したか、場合によってはまだ母親が生きているのではないかということだ。
その点で見れば、病院、いや外へ連れ出されたことは赤子に取って都合がよかった。
……よし、逃げ出そう。
そんな発想に至るまで時間はかからず、しかし前世と違い手足も短く移動にかかる金銭も持ち合わせていない。仮に金を持っていたとしてもひとりでタクシーに乗せてももらえないのだが、それが些事に思えるほどやるべきことで頭が満たされていた。
ちらりと横を見ればスマホに集中する女性の姿。見られていないことを確認して、忍者の精神をインストールする。
ゆっくり、ゆっくりと。ひとり座りしていた椅子から足をおろしていき、地面についたところで背中から引っ張られるようにして宙に浮いていた。
「駄目ですよ、座ってなきゃ」
「やー!」
やめてくれ、そんな言葉も言えず、振りほどこうと暴れてみるも功を成さず、元の椅子に戻されてしまう。
失敗したと諦めるにはまだ早く、赤子は再度機を見て逃げようと画策していた。ゆっくりと身体を横にずらしていき、手が届かないだろうところまで離れたと確信したら走り出す。
「あっ――」
子供の頭が重いなど、当たり前のことを忘れていたのが運の尽き。たった二歩で勢いよく前のめりに倒れてしまっていた。
強かに鼻尖を打ち付け、目には涙。泣き叫ぶ余裕などなく悶絶に耐えて身体を左右に転がし気を紛らわすのが精一杯だった。
「大丈夫!? ほら、危ないでしょ」
抱え上げられ、よしよしと背中をさすられていたが、痛みを堪える後ろに覗いているのは焦りや苛立ちだった。住所も電話番号もわかっているのにちょっと抱えられただけで動けなくなる、情けない身体に愛想を尽かしていた。
そんななか、待合に設置されたテレビから流れてくる声に赤子の注意が向く。ただのニュース、面白みのないはずの内容に、赤子は気を逸らすことが出来ずにいた。
『本日十月七日は終戦記念日です。皆様亡くなられた方へ――』
終戦の日、それは第二次世界大戦を指していた。二度の原爆投下の後、天皇陛下による
だからこそ、違和感に気付く。おかしい、そんなはずはない、と。
日にちが違う。玉音放送があったのは八月十五日、日本が降伏文書に署名したのが九月二日、そのどちらにも当てはまらず、あまつさえ終戦の日ではなく終戦記念日、公共の電波で敗戦を記念とは言わない。
ただの言い間違いかと、赤子は思っていたが待てども待てどもニュースキャスターが訂正する様子はない。周囲も違和感を覚えて失笑することなく事実として捉えている。もしかするとおかしいと感じているのは自分なのでは、という疑念が確信に変わるまでそう長い時間を要さなかった。
赤子は確認する、ここは日本、公用語は日本語。モンゴロイド系の顔つきにどこからか醤油の香り……はしない。日本度八十点といったところだ、他に候補がないのだ、筆頭候補であることは間違いない。
となると、なんだ? そんな疑問が浮かび上がる。記憶違いだろうか、いやいやそんなはずはない、となれば根底から考えを改める必要があるのではないか。
その考えに至り、とある仮説へとたどり着く。荒唐無稽で現実的ではない、あくまで創作物のみ許されている内容だった。
ここが、前世とよく似ただけの別の世界ではないかということに。
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