第2話「穢れなき魂の生贄」

「魔王を封じる古の儀式には、穢れを知らない魂の生贄が必要なんだ」


 カイさんの口から紡がれた言葉が、すぐには理解できなかった。

 生贄? 儀式? それが、どうして今、ここで?


 俺が呆然と立ち尽くしていると、彼は悲痛な表情を浮かべたまま言葉を続ける。


「ユキ、世界のために頼む」


 その瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。

 世界のために、頼む。

 つまり、その生贄になれと言っているのだ。俺に。


「え……? な、何を言ってるんですか、カイさん……?」


 震える声で尋ねるのが精一杯だった。

 冗談だと言ってほしかった。いつものように「なんて顔してるんだ」と笑ってほしかった。

 でも、カイさんの瞳は真剣そのもので、そこに宿る光は俺が今まで見てきた優しさとは全く違う、冷たい色をしていた。


「カイの言う通りよ」


 冷たく言い放ったのは、魔法使いのエレナだった。

 彼女は俺を虫けらでも見るような目で見下している。


「あんたみたいな役立たず、最後の最後で役に立てるんだから感謝しなさいよね」


「そういうことだ。お前がここで死ねば、世界は平和になる。名誉なことじゃねえか」


 盾役のゴードンも、盗賊のジンも、まるで申し合わせたかのように口々に俺を突き放す。

 彼らの言葉一つ一つが、鋭い氷の刃となって俺の心を突き刺した。


 違う。何かの間違いだ。

 だって、カイさんだけは。

 俺のことを見ていてくれるはずのカイさんだけは、こんなことを言うはずがない。


「カイさん……嘘ですよね……?」


 俺は最後の望みをかけて、彼にすがりつくように問いかけた。

 しかし、カイは痛ましげに顔を歪めると、そっと目を伏せた。


「すまない、ユキ。君しかいないんだ」


 その言葉が、決定的な一撃だった。

 ああ、そうか。最初から、みんなそのつもりだったんだ。

 俺を便利屋として使い潰し、最後の最後で魔王を封じるための「道具」としてここに連れてきた。


 カイさんが時折見せてくれた優しさも、俺の頭を撫でてくれた温かい手も、全てはこのためのものだったのだ。

 俺を信じさせ、逃げ出さないようにするための巧妙な罠。


『君がいてくれるから、僕たちは安心して戦えるよ』


『この戦いが終わったら、君に伝えたいことがあるんだ』


 脳裏に蘇る彼の言葉が、今は呪いのように響く。

 全身から急速に血の気が引いていくのがわかった。

 足が震え、立っていることさえままならない。


「さあ、祭壇へ」


 ジンに腕を掴まれ、乱暴に引きずられる。

 玉座の間の中心には、いつの間にか古びた石造りの祭壇が出現していた。

 俺が抵抗する力は、もう残っていなかった。

 ただ、されるがままに祭壇の上へと押し上げられる。


「ユキ、君の犠牲は無駄にしない。僕が必ず、世界を平和に導いてみせる」


 カイが芝居がかった口調で言う。

 その顔にはもう、先ほどまでの悲痛な表情はなかった。

 代わりに浮かんでいるのは、目的を達成する直前の冷酷な笑み。


 ああ、俺はなんて馬鹿だったんだろう。

 この人のこんな顔も知らずに、ずっと焦がれて夢を見ていたなんて。


 仲間たちが次々と俺に背を向けて玉座の間から出ていく。

 最後にカイが扉の前で一度だけ振り返った。

 彼の唇が、音もなく動く。


『さようなら』


 そして、重い扉が閉ざされた。

 完全に一人になった広間に、絶望的な静寂が訪れる。

 涙が頬を伝った。悲しいのか、悔しいのか、もう自分でもわからなかった。

 ただ、信じていたもの全てに裏切られたという事実だけが、鉛のように心を重く沈めていく。


【パーティーリーダーにより、あなたはパーティー『光の剣』から追放されました】


 脳内に、無機質なシステムメッセージが流れた。

 これで、俺と彼らを繋ぐものは何もなくなった。


『……もう、どうでもいいや』


 全てを諦め、祭壇の上に力なく横たわる。

 このまま俺の魂は魔王を封じる力として吸い尽くされ、消えていくのだろう。

 あっけない、惨めな最期だ。


 その時だった。

 カツ、カツ、と硬質な靴音が響いた。

 ゆっくりと、しかし確かな足取りで、何者かがこちらに近づいてくる。

 ハッとして顔を上げると、そこにいたのは玉座に座っていたはずの魔王アシュトだった。


 彼は静かに祭壇の前で足を止め、俺を値踏みするように見下ろした。

 その紫水晶のような瞳は、感情の色を全く映していない。

 あまりの美しさに、俺は恐怖さえ忘れて見入ってしまった。


「……これが、生贄か」


 低く、よく通る声だった。

 魔王は心底つまらなそうにそうつぶやくと、ふっと鼻で笑った。


「滑稽だな。生贄の儀式など、人間が恐怖を煽るために作り上げた、くだらない伝承にすぎん」


「え……?」


 思わず声が漏れた。

 伝承? 作り話?

 じゃあ、俺は一体何のためにここに?


「奴らは私を討伐する力がないと悟り、お前という『足枷』を押し付けて逃げた。それだけのことだ」


 魔王は淡々と事実を告げる。

 その言葉は、カイたちの裏切りが世界のためなどという大義名分すらない、ただの卑劣な自己保身だったということを、俺に容赦なく突きつけた。


 涙が、また溢れてきた。今度は、止めどなく。

 利用されるだけ利用されて、最後はゴミみたいに捨てられた。

 俺の献身も想いも、全てが無価値だった。

 あまりの惨めさに、声を出して泣きじゃくる。


 魔王はそんな俺を、ただ黙って見下ろしていた。

 その冷たい視線が少しだけ揺らいだように見えたのは、きっと涙で視界が滲んでいたからだろう。


 どれくらい泣き続けたのか。

 涙が枯れ果て、しゃくりあげる声だけが漏れるようになった頃、魔王が静かに口を開いた。


「……お前、名はなんという」


「……ユキ、です」


 途切れ途切れに答えると、彼は小さくうなずいた。


「ユキ。帰る場所はあるのか」


 その問いに、俺は力なく首を横に振った。

 パーティーを追放され、信じていた人に裏切られた俺に、もう帰る場所なんてどこにもない。


 魔王はしばらく何かを考えるように沈黙していたが、やがて俺に向かって手を差し伸べた。

 骨張った、美しい指先。


「ならば、ここに来るがいい」


「え……?」


「お前のその瞳、絶望に染まってはいるが芯の光は消えていない。少々、興味が湧いた」


 予想外の言葉に、俺はただ瞬きを繰り返す。

 魔王は俺を殺すでもなく、封印の生贄にするでもなく、ただ「来い」と言っている。


「どうする。私の手を取るか、それともここで朽ち果てるか。選べ」


 冷たいようでいて、どこか有無を言わせない響き。

 俺はしばらくためらった後、震える手で、そっとその手に自分の手を重ねた。

 魔王の手は氷のように冷たかった。

 しかし、なぜかその冷たさが今の俺には心地よく感じられた。


 彼に手を引かれ、祭壇から降りる。

 その瞬間、目の前の絶望が、ほんの少しだけ違う色に見えた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る