第8話 勇者の姉
三年前の冬。
沢崎歩実は、夫との最後の会話を思い出していた。
「もうこれ以上、一緒にいられない」
「歩実、このことは忘れてくれ。これは君が関わるべきことじゃない」
「でも、あなたは危険な研究に関わってる。それが許せない」
「危険? これは人類の未来のためだ」
「未知の植物を使った実験なんて、倫理的に問題があるわ」
夫は黙り込んだ。そして、冷たく言った。
「君には理解できない」
その言葉が、二人の関係を終わらせた。
離婚届にサインをして、歩実は娘の琴美を連れて実家に戻った。
今、歩実は糸岡市内の製薬会社、クラヤ製薬に勤めている。研究開発部の主任として、日々新薬の開発に携わっていた。
そして、最近また、会社で不思議な動きがあることに気づいていた。
ある日の昼休み。歩実は同僚と食堂で話していた。
「ねえ、聞いた? 第三研究棟に新しい部門ができたんだって」
「え、知らない。何の部門?」
「極秘らしいよ。入室にも特別な許可がいるんだって」
歩実は耳を澄ました。
「何を研究してるの?」
「わからない。でも、すごい予算がついてるらしい」
その日の午後、歩実は偶然、役員会議の資料を見てしまった。
「Newly Discovered Plant-Based Healing Drug Project(新発見の植物による回復薬プロジェクト)」
そのタイトルが目に飛び込んできた。
予算額は、通常の新薬開発の十倍以上。
そして、プロジェクトリーダーの名前――元夫だった。
歩実は息を呑んだ。
離婚して三年。まさか、同じ会社にいたなんて。
しかも、また「未知の植物」の研究。
何かがおかしい。
その夜、実家のリビングで歩実は考え込んでいた。
「お母さん、何か悩んでる?」
琴美が心配そうに聞いてくる。
「ううん、大丈夫よ」
「でも、最近ずっと難しい顔してる」
歩実は娘の頭を撫でた。
「仕事のことでちょっとね」
「お母さん、無理しないでね」
琴美の優しさが、歩実の心を和ませた。
数日後。歩実は洗濯物を片付けていた。
圭一の部屋に入ると、いつものように散らかっている。
「まったく、いい歳してこの部屋……」
溜息をつきながら、タンスの上に洗濯物を置こうとした時、タンスが少し動き、中からゴトリと何か重たいものの音がした。
奥に何かある。
歩実は好奇心に駆られて、タンスを少し引き出した。
その奥には、布に巻かれた長い物体があった。
「これ、何?」
持ち上げると、ずっしりと重い。
布を解いていくと――
剣が現れた。
歩実は驚いて、思わず声を上げそうになった。
それは、美しい剣だった。
銀色に輝く刃。複雑な紋様が刻まれた柄。でも、よく見ると、刃にはいくつも小さな欠けがあり、柄のグリップは使い込まれて黒ずんでいた。
そして、この金属――
歩実は研究者として、すぐに気づいた。
これは、既知の金属ではない。
地球上に存在しない、光沢と硬度。
「まさか……」
歩実はさらに探した。
タンスの奥から、箱が出てきた。
開けると、中には鎧と盾。
銀色の胸当てと、青い紋章が描かれた盾。
歩実は手に取った。
軽い。でも、明らかに頑丈だ。
胸当てには、焦げたような跡がある。盾には、深い切り傷。
これは、コスプレ衣装なんかじゃない。
実戦で使われたものだ。
「圭一……あんた、何してたの?」
歩実の頭の中で、様々な推測が巡る。
十五年前、圭一が高校生の時。夏休みに友達と出かけて、三ヶ月行方不明になった。
見つかった時、圭一と友人たちは「家出をした」と言い張った。
でも、おかしかった。
三ヶ月も家出するような子たちじゃなかった。
そして、帰ってきた圭一は、どこか変わっていた。
優しくなって、でも時々遠い目をして。
まるで、何か大きなものを抱えているように。
「これが、関係してるの?」
歩実は剣を布に戻し、元の場所に戻した。
でも、心の中では確信していた。
弟には、大きな秘密がある。
そして、その秘密は、会社の「未知植物プロジェクト」と関係しているかもしれない。
次の日、歩実は会社で元夫の姿を探した。
第三研究棟の前を通りかかると、ちょうど元夫が出てきた。
「久しぶりね」
声をかけると、元夫は驚いた表情を見せた。
「歩実……この会社にいたのか」
「あなたこそ。相変わらず、危険な研究をしてるみたいね」
「危険? 何を言って――」
「Newly Discovered Plant-Based Healing Drug Project、何を研究してるの?」
元夫の顔が強張った。
「それは、君には関係ない」
「琴美の父親がやってることなら、関係あるわ」
「……琴美は、元気か?」
「元気よ。あなたとは違って、普通に暮らしてる」
元夫は複雑な表情を浮かべた。
「歩実、忠告しておく。このプロジェクトには近づくな」
「どうして?」
「君を危険に巻き込みたくない」
その言葉に、歩実は少し驚いた。
元夫なりに、まだ自分と娘のことを気にかけているのかもしれない。
「でも、教えて。あの植物は、どこから来たの?」
元夫は答えなかった。
ただ、小さく言った。
「この世界のものじゃない」
そして、去っていった。
歩実は呆然と立ち尽くした。
この世界のものじゃない――
まるで、弟の剣と同じように。
その週末。琴美がスーパーに圭一を訪ねてきた。
「おじちゃん、今忙しい?」
「琴美か。大丈夫だよ。どうした?」
「ちょっと話があるの」
圭一は休憩室に琴美を案内した。
「何? 学校のこと?」
「ううん」
琴美は真剣な顔で圭一を見た。
「おじちゃん、なんか秘密あるでしょ?」
圭一の心臓が跳ねた。
「え? 何の話?」
「わかんないけど、おじちゃん、時々すごく遠いところ見てる。それに、最近お母さんも心配してる」
「琴美……」
「おじちゃんが悪いことしてるとは思わない。でも、何か隠してるでしょ?」
圭一は答えられなかった。
琴美は続けた。
「それにね、わたし、最近変なの」
「変?」
「胸騒ぎがするの。今まで感じたことないような」
「胸騒ぎ?」
「うん。なんか、怖いことが起こりそうな気がして。夜、夢を見るの」
「どんな夢?」
「暗い空と、光る門が見えて、おじちゃんがいるの」
圭一は息を呑んだ。
琴美が見ている夢――それは、まるで異世界の光景だ。
「琴美、その夢、いつから見るようになった?」
「一ヶ月くらい前から。最初は時々だったけど、最近は多いかも」
圭一は琴美の手を握った。
「その夢は怖い?」
「うん……でも、おじちゃんたちが私を守ってくれる気もする」
琴美の目には、不安と信頼が入り混じっていた。
「琴美、大丈夫。夢の中でも俺が絶対守るから」
「ほんと?」
「ああ、約束する」
琴美は安心したように笑った。
でも、圭一の心は重かった。
琴美に、異変が起きている。
もしかして、琴美は――
その夜、歩実は圭一を呼び止めた。
「圭一、話がある」
「姉ちゃん、どうした?」
リビングで、二人きりになった。
「あんた、部屋に剣を隠してるわね」
圭一は凍りついた。
「それ、どこで手に入れたの? あの金属、地球上には存在しないわ」
「姉ちゃん……」
「答えて。あんた、十五年前、本当は何があったの?」
圭一は迷った。
姉に、真実を話すべきか。
「今は、言えない」
「どうして?」
「危険だから。姉ちゃんや琴美を巻き込みたくない」
歩実は深く溜息をついた。
「でも、もう巻き込まれてるかもしれないのよ」
「え?」
「会社で、変な研究が進められてる。未知の植物を使った研究。そして、琴美が変な夢を見始めてる」
圭一は驚いた。
「琴美のこと、知ってたのか」
「母親だもの。娘の異変に気づかないわけないでしょ」
歩実は圭一の目をまっすぐ見た。
「お願い。教えて。何が起きてるの?」
圭一は決意した。
「週末、時間ある?」
「あるけど」
「仲間に会ってほしい。そして、全部話す」
歩実は頷いた。
「わかった」
その夜、圭一は有沢に電話をかけた。
「もしもし」
「有沢、相談がある。姉貴に、真実を話そうと思う」
「え? 本気か?」
「ああ。姉貴の会社が、異世界の植物を研究してるらしい。それに、琴美が異変を感じ始めてる」
有沢は少し黙った後、言った。
「わかった。他のみんなにも連絡する。今週末、集まろう」
「ありがとう」
電話を切って、圭一は窓の外を見た。
秋の夜空に、星が輝いている。
あの星の向こうに、異世界がある。
そして、その世界が再び、地球に接触しようとしている。
姉の歩実。姪の琴美。
家族が、この戦いに巻き込まれようとしている。
圭一は拳を握った。
守らなければ。
大切な人たちを。
勇者の姉は、弟の秘密に気づいた。
そして、その秘密は、家族全体を巻き込む運命の始まりだった。
リビングのソファに座る歩実。
彼女の目には、決意が宿っていた。
研究者として。母親として。そして、姉として。
弟を支える覚悟を、決めていた。
沢崎家の運命は、大きく動き始めていた。
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