第6話 看護師の薬草園

 祖父の家の裏庭。水戸優は朝露に濡れた薬草を丁寧に摘んでいた。

 ここは糸岡市の郊外にある古い日本家屋。三年前に亡くなった祖父から受け継いだ家で、水戸は一人暮らしをしている。

 そして、この広い裏庭には、誰も知らない秘密があった。

 青く光る葉を持つ「月光草」。傷を癒す効果がある。

 赤い実をつける「炎花」。体温を調整し、熱を下げる。

 そして、銀色に輝く「聖樹の若芽」。あらゆる病を浄化する、最も貴重な薬草。

 すべて、十五年前に異世界から持ち帰った種から育てたものだった。

「順調に育ってくれてる」

 水戸は満足そうに微笑んだ。

 元僧侶として、水戸は回復魔法と薬草の知識に長けていた。この庭は、彼女にとって大切な宝物だった。

 摘んだ薬草を洗い、乾燥させる。そして細かく刻んで、小瓶に詰める。

 これを病院に持っていく。表向きは「健康茶」として。

 でも実際は、異世界の病気に効く特効薬――ポーションの原料だった。

 糸岡大学病院。午前の回診が始まった。

 水戸は白衣を着て、患者の容態を確認していく。

「おはようございます、佐藤さん。今日の調子はいかがですか?」

「ああ、水戸さん。だいぶ良くなったよ」

 先週、魔瘴熱にかかっていた患者だ。水戸が密かにポーションを飲ませたことで、完治した。

「それは良かった」

 水戸は安堵の笑みを浮かべた。


 午後、救急外来に連絡が入った。

「高熱患者、搬送されます!」

 水戸は救急処置室に急いだ。

 運ばれてきたのは、三十代の女性。体温は四十二度を超えていた。

「意識レベル低下! バイタル不安定!」

 医師が指示を出す。解熱剤、点滴。様々な処置が行われる。

 でも、水戸はすぐに気づいた。

 この症状――魔瘴熱だ。

 患者の周りに、微かな魔力の残滓がある。何か異世界のものに接触したのだろう。

「検査結果は?」

「全て陰性です。既知の感染症ではありません」

 医師が困惑した表情で言う。

「原因不明……また同じパターンか」

 先週の患者と同じだ。

 水戸は小さく唇を噛んだ。


 処置が一段落した後、水戸は患者の病室に向かった。

 患者は高熱でうなされている。このままでは危ない。

 水戸は周りに誰もいないことを確認し、ポケットから小瓶を取り出した。

 琥珀色の液体。薬草から作ったポーション。

 口に数滴含ませる。それだけで効果がある。

「これで、大丈夫」

 三十分後、患者の熱は下がり始めた。

 医師たちは驚いていた。

「何が効いたんだ?」

「わかりません。でも、回復しています」

 水戸は表情を変えずに報告した。


 その日の夕方、病院長室に医師たちが集められた。

「最近、原因不明の高熱患者が増えている」

 病院長が深刻な表情で言う。

「三週間で五例。すべて同じ症状。そして、不思議なことに全員が回復している」

「しかし、なぜ回復したのかがわからない」

「厚生労働省に報告する。新型の感染症かもしれない」

 水戸は会議室の隅で、静かに聞いていた。

 拙い。このままでは、大規模な調査が始まる。


 翌日、厚労省の役人が病院に来た。

 スーツ姿の男性二人。感染症対策課の職員だという。

「原因不明の高熱患者について、詳しく聞かせてください」

 彼らは患者のカルテを精査し、病院内を調査し始めた。

 そして、なぜか看護師たちにも聞き取りが行われた。

「水戸さん、最近何か変わったことはありませんでしたか?」

「いえ、特には」

「患者に何か、通常と違う処置をしたことは?」

「ありません」

 水戸は冷静に答えた。

 でも、役人の目は鋭かった。まるで、何かを探っているような。


 その夜、水戸が家に帰ると、異変に気づいた。

 門の前に、見慣れない車が停まっている。

 黒いセダン。ナンバープレートは公用車。

 水戸は警戒しながら家に入った。

 裏庭を確認すると、薬草は無事だった。でも、誰かが敷地内に入った形跡がある。

 翌朝、近所の人に聞いてみた。

「昨日、スーツを着た男女が、水戸さんの家の周りをうろついてたよ」

「そうなんですか」

「何か調査? 役所の人かと思ったけど」

「多分そうです。ありがとうございます」

 水戸は笑顔を作った。

 しかし、心の中では焦っていた。

 政府機関。それも、おそらく厚労省ではない。もっと上の組織。

 十五年前に自分たちを拘束した、あの秘密機関かもしれない。


 病院で、水戸たちは上司に呼ばれた。

「今後しばらく、私物の持ち込みを控えてください」

「え?」

「厚労省からの指示です。感染症対策として、衛生管理を徹底するそうです」

 これは、ポーションを持ち込ませないための措置だ。

 水戸は愕然とした。

「わかりました」

 その日から、水戸はポーションを持ち込めなくなった。

 ロッカーの検査も始まり、私物は厳しくチェックされる。


 そして三日後。

 また新たな高熱患者が運ばれてきた。

 今度は十代の男子学生。症状は重く、意識がない。

「魔瘴熱……重症だわ」

 水戸は患者を見て、深刻さを悟った。

 このままでは、助からない。

 でも、ポーションは持ち込めない。どうする?

 夜勤のシフトになった時、水戸は決意した。

 魔法を使う。

 元僧侶として習得した、聖なる回復魔法。「ヒール」。

 十五年ぶりに使うことになる。

 でも、魔法を使えば、魔力の反応が出る。誰かに気づかれるかもしれない。

 それでも、目の前の命を救えないなら、何のための力か。


 深夜二時。病院は静まり返っている。

 水戸は患者の病室に入った。

 モニターの音だけが、静かに響いている。

 水戸は患者のベッドの横に立ち、両手を患者の胸の上にかざした。

 目を閉じ、古代魔語を唱える。

「聖なる光よ、この者に宿りたまえ。癒しの力を、今ここに――ヒール」

 水戸の手から、淡い光が溢れ出した。

 温かく、優しい光。それは患者の体を包み込んでいく。

 病室全体が、聖なる光に満たされた。

 患者の顔色が、徐々に良くなっていく。荒い呼吸が、落ち着いてくる。

 水戸は額に汗を浮かべながら、魔法を続けた。

 およそ二分。

 光が消えた時、患者は穏やかな寝息を立てていた。

 熱は下がり、バイタルも安定している。

「良かった……」

 水戸はその場に座り込んだ。

 久しぶりに使った魔力で、体が重い。

 でも、患者は助かった。

 その時、ドアの方から気配がした。

 水戸は振り返った。

 廊下に、人影。

 誰かが、今の光景を見ていた。

 影は、すぐに去っていった。

 水戸の心臓が激しく鳴った。

 誰? 看護師? 医師?

 それとも――


 翌朝、患者は奇跡的に回復していた。

 医師たちは首を傾げた。

「昨夜から急に回復した。何があったんだ?」

「わかりません。自然治癒でしょうか」

 水戸はとぼけた。

 しかし、病院長室では別の会議が開かれていた。

「夜間警備員の報告です。昨夜、三階病棟で不思議な光が見えたと」

「光?」

「はい。病室の一つが、青白く光っていたそうです」

「調査しろ。何かあったはずだ」

 水戸は、その会議の内容を後で耳にした。

 まずい。完全に疑われている。


 昼休み、水戸は圭一に電話をかけた。

「圭一君、相談がある」

「どうした?」

「政府機関に目をつけられてる。病院も、自宅も、監視されてる」

「まじか……有沢もそうだって言ってた」

「それに、昨夜魔法を使った。誰かに見られたかもしれない」

 圭一は少し黙った後、言った。

「今週末、絶対にみんなで集まろう。もう、個別に動くのは危険だ」

「うん、わかった」

 電話を切って、水戸は窓の外を見た。

 病院の駐車場に、また黒いセダンが停まっている。

 中には、スーツ姿の男女。

 彼らはこちらを見ている。

 水戸は小さく溜息をついた。


 その夕方、水戸が薬草を摘もうと裏庭に出ると、驚くべき光景を目にした。

 聖樹の若芽が、いつもより強く光っている。

 まるで、何かに反応しているように。

 水戸はその若芽に触れた。

 瞬間、魔力の強い流れが感じられた。

 海松岳。あの山の頂上で、再び門が開きかけている。

 そして、それが、糸岡市に異変を引き起こしている。

「まさか……もう、そこまで」

 水戸は愕然とした。

 門が開きかけている。

 ということは、本格的な侵攻が近い。


 その夜、水戸は一人で考え込んでいた。

 リビングには、薬草の資料が広げられている。

 そして、十五年前の日記。異世界での記録。

 自分は僧侶として、仲間を癒し、支えてきた。

 今も、患者を癒している。

 でも、このままでは、もっと多くの人が危険にさらされる。

 水戸は決意した。

 週末の集まりで、すべてを話そう。

 そして、五人で立ち向かう準備を始めよう。

 窓の外、夜空に浮かぶ月。

 その月が、どこか異世界の月と重なって見えた。

 看護師・水戸優。元僧侶。

 彼女の静かな日常は、もはや過去のものとなりつつあった。

 癒しの力は、今、試練の時を迎えていた。

 そして、見守る影。

 政府機関の監視は、確実に強まっていた。

 元勇者たちの秘密は、もはや守り切れないのかもしれない。

 でも、それでも。

 水戸優は、自分の信念を貫く。

 命を救うこと。それが、僧侶としての使命だから。

 聖なる光は、再び輝く日を待っていた。

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