第28話 光と闇の助手

午後の陽光が降り注ぐ中庭は、新しい学院の穏やかな日常を象徴する場所となっていた。学生たちは芝生の上に思い思いに座り込み、分厚い『共鳴的理性概論』を広げて議論を交わしたり、あるいはただ静かに、自らの内なる感情の流れに耳を澄ませたりしている。かつてこの場所を支配していた、感情を抑制する無言の圧力は、もうどこにもなかった。


その穏やかな風景の中を、二つの対照的な影が歩いていく。

一つは、純白のワンピース。もう一つは、漆黒のドレス。

白羽エミルと黒羽ルカ。

かつては隔離された実験体として、その存在すら秘匿されていた彼女たちは、今やこの学院で知らぬ者のない存在となっていた。学生たちは、畏敬と、少しばかりの親しみを込めて、彼女たちをこう呼ぶ。「シノン教授の、光と闇の助手」と。


実験体としての役割を終えた彼女たちは、その特異な能力と経験を買われ、シノンが新設した「共鳴的理性研究部門」の特別研究員となっていた。それは、彼女たちが自らの意志で選び取った、新しい役割だった。その首からは、被験者を示す無機質なIDタグの代わりに、学院の正規職員であることを示す、美しい紋様の入った身分証が提げられている。


二人は、それぞれの仕事終わりなのだろう、並んで研究室へと戻る途中だった。その様子は、相変わらずで、遠目にも賑やかだった。


「だから、貴女のやり方は甘すぎるって言ってるのよ」

ルカが、呆れたように腕を組む。

「あの学生、自分の感情に『共感』しすぎて、完全に同一化しちゃってるじゃない。あんなのは調和じゃなくて、ただの溺死よ。もっと突き放して、自分の足で立てるように仕向けないと」

「そんなことないわ」

エミルが、少しむっとしたように言い返す。

「あの子に必要なのは、まず自分の感情をありのままに受け入れて、安心できる場所を作ってあげること。境界線を引くのは、その後の話よ。焦ってはダメ」

「その安心という名のぬるま湯に浸かって、一生出てこられなくなったらどうするのよ」

「ルカさんこそ、厳しすぎるわ。貴女の指導を受けた学生、みんな目に隈を作って研究室から出てくるじゃないの」

「あら、あれは自分の限界を知った、戦士の勲章よ」


その会話は、かつてのような敵意の応酬ではない。互いのやり方を認め合った上で交わされる、軽やかで、どこか楽しげな口論。それは、姉妹喧嘩にも似た、親密な響きを持っていた。


エミルの新しい仕事は、カウンセラーだった。

研究部門に併設された相談室で、彼女は新しい学問に戸惑う学生たちの、心の声に耳を傾けていた。だが、彼女のやり方は、かつてのそれとは根本的に異なっていた。

彼女はもう、相手の負の感情を、無尽蔵に引き受けたりはしない。代わりに、彼女の光の力を、相手の内面を照らし出すための、サーチライトのように使うのだ。

「貴方が今感じている不安は、どこから来るのでしょうね」「その怒りの奥には、どんな悲しみが隠れているのかしら」。彼女は、優しく問いかける。そして、相手が自らの力で、自らの感情の源流を発見し、それを受け入れる(=調和する)手助けをする。自己肯定から生まれた彼女の光は、もはや他者を消費しない。ただ、自立への道を、そっと照らし出すだけだった。


一方、ルカの新しい仕事は、実践的な干渉技術を教えるインストラクターだった。

部門の訓練室で、彼女は感情の扱いに悩む学生たちに、容赦のない指導を行っていた。特に、共感能力が高すぎるせいで、他者の感情に振り回されてしまう「共感過多」の学生たちへの指導は、彼女の独壇場だった。

「馬鹿ね。他人の感情なんて、土足で自分の家に入ってくる侵入者と同じよ。ドアを開けっ放しにしてどうするの」

彼女は、学生たちに「境界」の創り方を教える。他者の感情をシャットアウトするのではない。自分の精神という名の家を守るための、健全な壁と、適切なドアを築く技術。それは、他者を拒絶するためではなく、自分を守り、そして対等な関係を築くための、最も重要なスキルだった。彼女の闇の力は、もはや他者を破壊しない。ただ、自己の輪郭を、鋭く、そして明確に描き出すだけだった。


光が繋がりを教え、闇が個を守ることを教える。

二人は、それぞれのやり方で、シノンが提示した「共鳴的理性」の、実践的な側面を学生たちに伝えていた。彼女たちは、生きた教科書そのものだったのだ。


中庭を抜け、研究室の扉を開ける。そこには、シノンが一人、静かにデスクに向かっていた。彼女の周りには、学生たちが提出したレポートの山と、飲み干された紅茶のカップがいくつも並んでいる。新しい世界の定義者は、その定義を未来へと繋ぐための、地道な仕事に追われていた。


「シノン、お疲れ様」

エミルが、新しい紅茶を淹れるために、ポットを手に取る。

「……また、根を詰めてる。少しは休んだらどうなのよ」

ルカが、呆れたように言いながら、窓を開けて空気を入れ替える。

シノンは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、深い疲労の色と、しかしそれ以上に、充実した輝きが宿っていた。

「……二人とも、お疲れ様です。今日の報告書は?」

「後でまとめて提出します。それより、これ」


エミルが、湯気の立つカップを、そっとシノンのデスクに置いた。ルカは、どこからか持ってきた焼き菓子を、その隣に無造作に置く。

それは、いつしか三人の間で生まれた、新しい日常の風景だった。

誰が言うでもなく、互いの役割を理解し、互いを気遣い、そして支え合う。


「このデータ、興味深いわね」

ルカが、シノンのデスクにあったレポートの一枚を、勝手に手に取って読み始める。

「感情同期における、聴覚情報の優位性について? 発想は悪くないけど、実験計画が甘すぎるわ」

「あら、でもこの子の着眼点は、とても優しい視点だと思うけどな。音の響きが、人の心を繋ぐっていうのは、素敵じゃない」

エミルが、そのレポートを横からのぞき込む。

「優しさだけじゃ、真理には届かないのよ」

「厳しさだけでも、人はついてこないわ」


再び、口論が始まる。だが、その声は、この温かい光に満ちた研究室の中で、心地よい和音となって響いていた。

シノンは、そのやり取りを、ただ黙って、微笑みながら聞いていた。

そして、エミルが淹れてくれた紅茶を、静かに一口飲む。

その温かさが、彼女の疲れた心と身体に、ゆっくりと染み渡っていく。


光と闇の助手。

いいえ、とシノンは心の中で訂正した。

彼女たちは、助手などではない。

この、新しい世界を共に創造していく、かけがえのない、パートナーなのだ。

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