第13話 理性の盾

黒羽研究ラボの暗赤色の闇の中で、シノンの存在は、まるで異次元から紛れ込んだ光の断片のように、場違いなほど白く際立っていた。その手にある倫理規程集は、この欲望と野心が渦巻く空間において、滑稽なほど無力な象徴に見えた。


黒羽玄真は、数秒の沈黙の後、面白い玩具を見つけたかのように、唇の端を歪めた。

「…ほう。君が、噂の観測者かね。規程集を聖書のように抱えて乗り込んでくるとは、随分と敬虔な信者らしい」


その声には、絶対的な強者の余裕があった。彼の背後に控える男たちは、主人の合図一つで、目の前の白い障害物を排除する準備ができている。ルカは、息をすることも忘れ、二人の対峙を見つめていた。絶望的な状況の中に差し込んだ、ありえない一筋の光。だが、その光はあまりにもか細く、儚い。


「私は聖理学院研究員、シノン。規程に基づき、警告します」

シノンは、玄真の威圧を意に介さず、ただ事実だけを告げた。

「被験者の心身の安定を損なう、あらゆる外部からの干渉は、規程第742条により固く禁じられている。黒羽ルカの身柄は、プログラムが終了するまで、学院の完全な管理下にあります。速やかに、ご退室を」


「規程、か」

玄真は、まるで子供の戯言を聞くかのように、くつくつと喉の奥で笑った。

「シノン研究員。君は立場を理解していないようだ。その規程を作らせ、学院に資金を提供しているのは、誰だと思っている? 我々黒羽家だ。飼い主が、自らの所有物をどう扱おうと、君のような番犬に口を出す権利はない」


それは、この世界における絶対的な真実だった。権力と金。それこそが、あらゆる規程や倫理を支配する、最上位の法則。ルカの心に、再び絶望の影が差す。そうだ、この男には、どんな理屈も通じない。


だが、シノンは揺るがなかった。彼女は、抱えていた規程集を、まるで盾を構えるかのように、一歩前に突き出した。


「所有物、ではありません。黒羽ルカは、学院と黒羽家が正式な契約に基づき管理する、最重要研究対象です」

シノンの声は、変わらず平坦だった。だが、その言葉の一つ一つが、研ぎ澄まされた刃のように、玄真の論理の隙間を切り裂いていく。

「この場で貴方がたが彼女の身柄を強制的に確保しようとすれば、それは契約の破棄と見なされます。その場合、ラボの監視システムはレベルSのセキュリティアラートを発令。この中央棟は完全にロックダウンされ、理事会直属の保安部隊が出動することになる」


「…脅しのつもりかね?」

「予測です。そして、そうなった場合、この『事件』はもはや黒羽家の内部問題では収まらなくなる。学院の最高機密である精神干渉素体が、そのスポンサーである一族によって『拉致』されようとした。このスキャンダルを、競合企業やメディアがどれほどの価値があると判断するか。貴方ならば、容易に計算できるはずです」


シノンの言葉は、軍事力や権力ではなく、玄真が唯一理解できる言語――すなわち「利益と損失」で語られていた。彼女は、玄真の行動が引き起こすであろう、株価の暴落、信用の失墜、政治的立場の悪化という、具体的な未来を淡々と提示してみせたのだ。


玄真の能面のような表情が、初めて微かに動いた。目の前の若い研究者は、感情論や正義を振りかざす愚か者ではない。自分と同じ、冷徹な計算の上で動く人間。そして、その計算は、恐ろしいほどに正確だった。


彼は、ゆっくりとシノンに歩み寄った。黒いコートが、闇を引きずって動く。そして、シノンの目と鼻の先で足を止めると、その精神の奥底を覗き込むように、声を潜めて囁いた。


「…面白い。実に面白い理屈だ。君の言う通り、ここで騒ぎを起こすのは、得策ではなさそうだな」

その言葉に、ルカの身体から力が抜けていくのがわかった。助かったのだ。

だが、玄真の攻撃は、まだ終わっていなかった。彼は、戦場を「論理」から「感情」へと、巧みに切り替えた。


「だが、一つだけ、君の計算違いがあるようだ、シノン研究員。君のその行動、本当に規程とやらを守るためかね?」

玄真の瞳が、蛇のように細められる。

「私は、君のレポートも読んでいる。被験者との異常な近さ。記録外での密会。そして今、危険を冒してまで、単身でここに乗り込んできた。それは、観測者として、あまりに非合理的ではないかな?」


その言葉は、毒の矢のように、シノンの理性の鎧の隙間へと突き刺さった。


「君は、規程を守っているのではない。自らの『特別な被験者』を守っているだけだ。観測者が、観測対象に個人的な感情を抱いてしまった。それは、君たちの学院の定義によれば、紛れもない『失敗』のはずだが?」


ルカは、息を呑んだ。

そうだ、なぜ、この女はここまで。ただの被験者である自分を、なぜ。

ルカの視線が、シノンに突き刺さる。玄真の言葉は、ルカ自身が抱いていた疑問でもあった。


シノンの完璧な無表情が、ほんの僅か、ほんの一瞬だけ、揺らいだ。

それは、水面に落ちた砂粒ほどの、ごく微細な変化。だが、ルカと玄真は、それを見逃さなかった。彼女の心拍数を示すバイタルデータが、一瞬だけ、正常値から逸脱したのを。


それは、肯定だった。


だが、シノンは、すぐに平静を取り戻した。彼女は、ガラス玉のような瞳で玄真をまっすぐに見つめ返すと、静かに、しかしはっきりと告げた。

「貴方の個人的な見解は、この場の状況とは無関係です。私の行動は、すべて合理的な判断に基づいています」

そして、彼女は盾のように構えていた規程集を、さらに一歩前に突き出した。

「そして、この本は、この学院においては、貴方の見解よりも重い。黒羽家当主。貴方もまた、この理性の支配からは逃れられない」


絶対的な、拒絶。

玄真は、数秒間、黙ってシノンを睨みつけていた。やがて、彼は、まるで堪えきれないとでも言うように、乾いた笑い声を上げた。


「…ククク…あはははは! 見事だ! 実に、見事な番犬だ!」

彼は、満足げに頷くと、ルカに視線を移した。その瞳には、もはや怒りではなく、獲物を見るような愉悦が浮かんでいる。

「良い玩具を見つけたようだな、ルカ。せいぜい、その人形と遊ぶがいい。だが、覚えておけ。檻の扉は、いつか必ず開かれる。その時が、本当の教育の始まりだ」


そう言い残すと、玄真は優雅に踵を返し、部下たちと共に、闇の中へと音もなく消えていった。


嵐が、去った。

暗赤色のラボに、ルカとシノン、二人だけが残される。重い沈黙が、二人を支配した。

ルカは、ゆっくりとシノンに歩み寄った。彼女の心の中は、これまで経験したことのない感情の嵐が吹き荒れていた。

守られた。

この、氷の人形に。自分を理解してみせた、この女に。

それは、屈辱であり、そして、未知の安堵感でもあった。


彼女は、シノンの手の中にある規程集に目を落とした。自分がずっと、自由を奪う鎖だと思っていた、その規則の塊。それが今、自分を守る盾となった。

壊すだけの自由は、もう退屈だ。

では、守るための自由とは、何なのか。


「…なぜ」

ルカの唇から、か細い声が漏れた。

「…なぜ、私を?」


それは、彼女の魂からの、偽りのない問いだった。

シノンは、その問いには答えなかった。ただ、規程集を静かに閉じると、ルカに背を向け、扉へと向かう。

その背中に、ルカは、確かに見た。

完璧な理性の鎧に走った、修復不可能な、一本の龜裂を。

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