アフェクシオの境界ー甘罪の双翼と共鳴する理性のテーゼ
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第1話 観測者の白色光
音は死んでいた。
聖理学院(Academia Orbis)中央研究棟の最上階。その一室において、音は存在することを許されていない。床、壁、天井のすべてに吸音素材が用いられ、外気さえも幾重ものフィルターを通して無臭の気体へと変換されてから室内へと供給される。ここは、純粋な観測と思索のためだけに最適化された聖域であり、緑川シノンのための鳥籠だった。
彼女の網膜を焼くのは、天井パネルから均一に降り注ぐ白色光のみ。影の生まれる余地のない、飽和した光。それは世界のあらゆる事象から情動という名の不純物を取り除き、純粋なデータへと還元せよと命じているかのようだった。シノンはその光の下で、自身の思考が最も透明な結晶体へと昇華されていくのを感じる。余計な熱を持たない、完璧な論理の構造物。それこそが彼女の求める世界の姿であった。
目の前のコンソールには、複雑な波形グラフがいくつも明滅している。人間の感情エネルギーを「共感場理論」に基づき観測、数値化したものだ。喜びの鋭いスパイク、悲しみの描く低い減衰曲線、怒りの不規則な振動。シノンにとって、それらは人間という不安定なシステムが生み出す、解析すべき現象でしかない。彼女は指先を滑らせ、あるデータ群を呼び出した。
ケース名『恋愛感情に起因する精神干渉失敗事例』。
それは、学院の倫理規程において最も重い禁忌とされる条項を生むきっかけとなった事象だった。観測される波形は、他のどの感情とも比較にならぬほどの高エネルギー出力を示しながら、最後には予測不能なノイズの嵐へと陥り、被験者双方の精神境界を崩壊させる。故に「失敗」と定義されたもの。
だが、本当にそうだろうか。
シノンは細い指でコンソールの縁をなぞる。その無機質な感触だけが、彼女をこの思索の海から物理世界へと繋ぎとめている。失敗、というラベリングはあまりに非論理的だ。これほどのエネルギーが、ただ無秩序な崩壊のためだけに発生するとは考えにくい。そこには未知の法則が、未解明の構造が隠されているはずだ。システムの暴走ではない。高次元の秩序への遷移、その過程で起こる相転移のようなもの、と捉えるべきではないのか。
思考が深淵に達しようとした瞬間、室内に抑制された電子音が響いた。入室許可を求めるシグナル。シノンは思考の結晶体に走った微細な龜裂を意識しながら、ゆっくりと顔を上げた。この聖域への訪問者は限られている。そして、その人物は、この部屋の主が最も評価する美徳、すなわち「論理」の体現者の一人であったはずだった。少なくとも、昨日までは。
「どうぞ」
静かな応答と同時に、音もなく扉が開く。現れたのは、白衣を纏った老年の男。この研究棟の前任管理者であり、シノンの指導教官でもあったアルフォース教授その人だった。しかし、彼の纏う空気は、シノンが知るそれとは異質な温度を帯びていた。それは感傷、あるいは郷愁と呼ばれる、極めて非合理な感情エネルギーの残滓。
「お邪魔するよ、シノン君」
「いいえ、教授。貴方がこの部屋を訪れることに、邪魔という概念は適用されません。ただ、今の貴方の表情には論理的でない揺らぎが観測されますが」
シノンは立ち上がることなく、ただ椅子を回転させて老教授と向き合った。その視線は、彼の瞳の奥にある感情の波形をスキャンするかのごとく鋭い。アルフォースは苦笑とも諦念ともつかない笑みを浮かべ、手にしていたデータパッドをシノンへと差し出した。
「最後の引継ぎだよ。私が個人的に管理していた、未整理の観測記録だ。君に託したい」
「未整理ですか。貴方にも、そんなものがあるとは。何らかのノイズが混入して、中断したものですか」
「ノイズ、か。そうかもしれん。あるいは、ノイズと切り捨ててはいけない、何かなのか」
会話が、静かなテニスのラリーのように続く。シノンの放つ言葉は常に定義を求め、相手の曖昧さを許さない。
「つまり、教授。貴方は、感情が完全に制御可能であるという学院の基本理念に、疑義を抱いているということですか?」
シノンの問いは、核心を突いていた。老教授は一瞬、言葉に詰まる。彼の理性の城壁が、長年の研究の末に、ついに感情という名の蔦に侵食され始めたことを、シノンは見抜いていた。
「……定義上は、制御可能だろう。我々が定めたルールと手順に従う限りにおいては。だがね、シノン君。定義の外側には、常に観測しきれない宇宙が広がっている」
アルフォースの言葉は、詩的で、それ故にシノンにとっては不誠実だった。定義できないものは、存在しないか、あるいは新たな定義を待つ対象であるかのどちらかだ。そこに宇宙などという曖昧なものを持ち込む余地はない。
「定義、ですか。その定義そのものが、観測された現象を正しく記述できていない可能性は考慮しないのですか。例えば、『恋愛=失敗』という規定。あれは結論ではなく、思考停止のラベリングに過ぎません」
シノンは言い放った。老教授の瞳が、僅かに見開かれる。目の前の若き後継者が、自分があと一歩踏み出せなかった領域に、既に足を踏み入れていることを悟ったからだ。彼はゆっくりと息を吐き、データパッドをデスクに置いた。
「……その通りかもしれん。私はもう、その答えを探すための時間がない。だが、君にはある。この記録が、君の探求の助けになることを願っているよ」
「これはデータです。助けや願いといった情動的価値観で評価する対象ではない。ですが、感謝はします。貴重なサンプルとして、分析させていただきます」
それが、師弟の最後の会話だった。アルフォースは何も言わず、一度だけ静かに頷くと、音もなく部屋を退出していった。再び完全な静寂が訪れる。だが、その静寂は先程までとは質が異なっていた。老教授が残した「定義の外側」という言葉が、測定不能な残響となって、シノンの思考空間に漂っている。
彼女はデータパッドを手に取った。そこには、十数年前に開始されたあるプロジェクトの初期記録が収められていた。『天使・悪魔素体プログラム(Seraphic/Diabolic Program)』。光(受容)と闇(挑発)、対照的な感情特性を持つ人格素体を分離育成し、精神干渉の極致を探るという壮大な実験。そして、その被験者リストの最上段に、二つの名前が並んでいた。
『白羽エミル』
『黒羽ルカ』
シノンは自室のコンソールに戻り、教授から受け取ったデータを自身のシステムに統合した。そして、再びあのファイルを開く。『恋愛感情に起因する精神干渉失敗事例』。そこに記録された膨大なノイズの嵐。人々が「失敗」と呼ぶその現象の奥に、彼女は明確な構造を見出そうと試みる。
思考の刃を研ぎ澄まし、複雑に絡み合ったデータの中から、一本の糸を手繰り寄せる。それは、エネルギー出力が最大値に達する直前に、必ず現れる特異な波形だった。ノイズではない。二つの異なる波長が、完璧な高調波となって共鳴している瞬間の記録。それは、崩壊の前触れではなく、新しい秩序が生まれようとする産声のように見えた。
だが、その共鳴は決して長続きしない。ほんの一瞬の後、外部からの介入、あるいは被験者自身の倫理観という名のシステムエラーによって強制的に遮断され、エネルギーは出口を失って暴走を始める。これが「失敗」の正体。
推論。つまり、失敗しているのは感情そのものではない。感情を観測し、制御しようとする我々のシステムの方なのではないか。学院が定めた「倫理」という名の檻が、感情という鳥が飛び立つのを阻害している。
その結論に達した時、シノンの脳内に、これまで感じたことのない種類の興奮が走った。それは真理の輪郭に触れた科学者のそれであり、未知の数式を解き明かした数学者のそれに近い。平坦だった彼女の探究心というグラフに、初めて鋭いスパイクが記録された瞬間だった。
この仮説を、証明しなければならない。
そのための実験が必要だ。
まるで彼女の思考に応えるかのように、理事会からの通信シグナルがコンソールに表示された。最高レベルの優先度を示す赤色の点滅。シノンは一つ息を吸い込み、通信回線を開いた。ホログラムウィンドウに、感情の起伏を感じさせない学院理事の顔が浮かび上がる。
『シノン研究員。君に新たな任務を命じる』
「拝聴します」
『かねてより最終評価段階にあった、天使・悪魔素体プログラムだが、本日をもって君の直轄管理とする。被験者、白羽エミルと黒羽ルカを共同生活させ、その相互干渉データを最終報告書としてまとめ、提出せよ』
シノンの心拍数が、僅かに上昇した。偶然か、必然か。彼女が今まさに渇望していた実験環境が、向こうから提示されたのだ。
『何か質問は?』
「一つだけ。この最終評価の目的は何ですか。彼女たちの能力の有用性を測るためか、あるいは危険性を断定するためか。評価基準を明確に定義してください」
シノンの問いに、理事は少しだけ間を置いた。その沈黙に、政治的な意図が潜んでいることをシノンは読み取る。
『……両方だ。光と闇、そのどちらが学院の秩序維持に貢献するか、あるいはどちらがより大きな脅威となるか。それを見極めてもらう。君の理性が、それを判断すると信じている』
「承知しました。私の分析結果を以て回答します」
通信が切れる。シノンの指は、既にコンソールの上を走っていた。白羽エミルと黒羽ルカ。二人の被験者の基礎データを呼び出す。光のオーラを放ち、他者の負の感情を吸収し癒す天使。闇のオーラを纏い、他者の本音と欲望を暴き出す悪魔。
対照的な双子の実験体。そして、理性を探求する賢者。
三つの素子が、今、一つの盤上に揃えられようとしていた。
シノンは、コンソールに映る二人の少女の顔写真を、ただ静かに見つめていた。その瞳には、感情の揺らぎはない。あるのはただ、これから始まる観測への、冷徹で純粋な、知的好奇心だけだった。無機質なデータグラフの向こう側にある真理を、この手で掴み取るための。
冷たい白色光が、彼女の横顔を彫刻のように照らし出していた。
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