五月の残雪
馬渕まり
第1話 五月の残雪
1.
某県の県庁所在地である
「いくらゴールデンウィーク明けとはいえ、金曜日に閑古鳥って大丈夫なんですか、マスター?向かいのお店は大繁盛なのに」
喫茶店『すのうどろっぷ』の閑散とした客席を見つめながら、アルバイトの
「ははは、心春さんのバイト代くらいは出せるから心配しないで」
この店の経営者兼マスターである
「ここ、割と家賃高そうですけど……何か怪しい仕事でもやってるとか?」
心春がわざと声を落とす。
「ここだけの話だけど……株式投資」
「もっと設定盛って下さいよ! ほら、某アニメみたいに裏稼業でスナイパーやってるとか」
「そうだね、暇な時にでも考えておくよ。それより、新作メニューを試作したんだ。ちょっと早いけど夕飯にしないかい?」
矢上がカウンター裏にあるオーブンを開けると、肉が焼けた香ばしい匂いが店内に漂う。心春の腹が小さく鳴った。
「その匂いは反則ですよ、マスター」
心春はピンクブラウンの髪を揺らし、洗面台に走って手を洗い始めた。
矢上が客のいないテーブルに料理を置く。皿からは美味しそうな湯気がたちのぼっていた。ぶつ切りの羊肉の横には、ミニ玉ねぎ、ミニトマト、ピーマン、ニンニクなどの野菜が丸ごと並べられ、オリーブオイルとスパイスを絡めて焼かれた料理だ。
「うわ、美味しそう! これ、なんて名前の料理ですか?」
「エリ・ボールンデっていうトルコの料理さ。『手を脇腹に』って意味らしい」
矢上がフランスパンとカフェオレを心春の前に置いた。
「変わった名前ですね」
「手持ち無沙汰になるほど簡単って意味らしいよ。材料に味付けしたら、並べて焼くだけだからね」
「ふむふむ。肝心のお味の方は……」
心春がミニ玉ねぎをフォークで突き刺し、口に運んだ。続いて羊肉。噛み締めると肉汁とオイルが絡まり、舌の上でダンスを踊る。
「素材の味が活きてますね。スパイスが絶妙。これはお米が欲しくなるぅ」
「ご飯、ついでこようか?」
「じゃあ、お茶碗に半分くらい。これ宣伝したら流行ると思いますよ! そうだ、今度、ウチの料理研究サークルがテレビ取材を受けるんです。その時にアピールしてみよっかな」
矢上が大袈裟に顔の前で手を振った。
「ええっ!? やめてよ。忙しくなったら昼寝できなくなるし」
「マスター、私がいない時間に昼寝してるんですか」
心春は思わず笑い、口元を隠す。曲げた肘がグラスに当たり、テーブルから落ちそうになる。「あぶない!」
矢上が咄嗟に立ち上がり、グラスを掴んだ。跳ね上がった水は、パシャンと音を立ててグラスの中におさまった。
2.
明けて月曜日、心春は20時前まで大学にいた。料理サークルのテレビ取材のためだ。
「大学のサークルでここまで本格的な料理が食べられるとは、ナナコ感激しました〜。次回の『サークルこんにちは』は青蘭大学の馬術部です。おっ楽しみに!」
「はい、カット。お疲れ様。
カムイテレビのディレクターが朗らかに笑い、ADが記念のボールペンとメモパッドを配ってまわる。ADの女性が、心春の後ろでふと足を止め、あたりを見回す。
「どうされました?」
心春が振り返ると、ADはハッとしたように記念品を取り出した。
「先程、後ろ姿がよく似た方に記念品をお渡ししたので、ちょっと悩んでいました」
「ああ、桜子ですね。後ろ姿でよく間違われるんです。こちらは庶民で、あちらは官房長官のお嬢様ですけど」
官房長官の名に反応したディレクターが桜子の前で名刺を取り出していた。
「桜子、似たもの同士一緒に帰らない?」
心春の呼びかけに、桜子が顔の前で手を合わせゴメンねのポーズをとった。
「それがね、明日が期限の彫刻仕上がってないのよ……終電ギリギリまで粘るつもり」
「そっか、頑張って。深夜に帰るならタクシーが良いかもよ。桜子を誘拐したら身代金高そうだし」
「そうね。心春も気をつけて帰ってね」
心春はサークルのメンバー数人と大学を出て地下鉄に乗った。途中駅で一人下車をする。本来ならば桜子と同じ女子寮に帰るのだが、今日は一人だ。月には雲がかかり、街灯の少ない道は人通りもなく薄暗い。
こんな時は歌でも口ずさみながら元気に進むのが一番だと、心春が息を吸い込んだ瞬間、その口が背後から塞がれた。首元にはナイフ。抵抗する間もなく心春は横付けされたバンに放り込まれた。
3.
『すのうどろっぷ』の電話が鳴る。
「心春さん、出てもらえま……ああ、今日はお休みでしたね」
矢上がジャガイモを剥く手を止め、受話器を持ち上げる。
「はい、すのうどろっぷです」
「もしもし、こちら斎藤食器店です。新入荷のご案内にお電話いたしました。ビクトリア時代のティーカップです」
矢上の表情が一瞬にして引き締まる。細い銀縁の眼鏡を外しサイドボードに置く。その顔はとても潰れかけ喫茶店のマスターには見えなかった。相手は矢上が傭兵時代の部下だった。何故だか矢上に懐き、神居市で食器屋兼情報屋を営んでいる。
「斎藤か。ビクトリアとはまた、高価な品だな。詳しく聞かせてもらおうか」
「ブラック・フラッグの向井がそちらのバイトに手ぇ出しましたよ。おそらく人違いで攫ったかと。場所は北区の神楽木町、五年前にキャバクラが火ぃ出したあのビルです」
「ティーカップの代金は帰ってから振り込む」
矢上は静かに受話器を置く。その時、カランとドアにつけたカウベルが音をたてた。見ると男女が立っている。時々店に来る夫婦だった。
「すみません。子供が熱出しちゃって今閉めるところだったんです」
すまなさそうに矢上が頭を下げると、女性の方がすぐさま声をあげた。
「それは早く帰ってあげて。私たちは他で食べるから気にしないで」
「次に来られた時に、サービスいたしますね」
二人を見送りcloseの札を掛けると、喫茶店とつながっている住居部分の地下に降りる。趣味の文庫本が詰まった書庫にみえるが、奥の棚の本を抜き、覗きこむと虹彩認証のロックが外れて隠し扉が開く。
そこは矢上が傭兵時代の記憶を閉じ込めた武器庫であった。 手際よく消音器付きの麻酔ダーツライフルをギターケースに放り込む。シャツの上にホルスターをつけグロックを差し込むとカジュアルなジャケットを羽織った。 そのまま車庫へと走り、愛車のデミオのエンジンをかける。
「北山心春奪還ミッション開始。ターゲットはテロ組織『ブラック・フラッグ』の向井彰及びその配下数名」
矢上はアクセルを踏みこみ、デミオは夜の街へと滑り込んでいくのだった。
4.
22時過ぎ、北区の廃ビル5階。後ろ手に縛られてた心春の顎を持ち上げながら、ブラック・フラッグのチーフである向井は眉を顰めていた。
「写真と違って随分美人じゃねぇか……ははは、別人じゃ、ボケが」
心春を攫った部下の腹に鋭い一発が入る。部下は少しの胃液を吐きその場にうずくまっている。
「春日井官房長官の娘を拉致して、身代金と服役中の同志の解放ができれば俺も幹部だったのによ。どこの誰か分からん小娘をさらいやがって、お前らはそろって無能か!?」
語気が強まり、唾液の飛沫が広がる。
「まぁ、美人のお嬢さんには悪いが消えてもらうぜ。呪うなら自分の運の悪さを呪うんだな」
向井が心春に拳銃を向ける。 ──誰か助けて! 心春はぎゅっと目を閉じた。なぜか瞼の裏に浮かんだのはすのうどろっぷの矢上だった。
どさり
人が倒れる音が深夜の廃ビルに響く。また同じ音がした。心春がおそるおそる目を開けると、先程銃を構えていた男が狼狽え、柱の陰に隠れるところであった。床には殴られて倒れた部下の他に三人の男が転がっている。
プシュッ
乾いた音に続いてまた一人倒れる。異変に気づいた男達が慌てて散らばるが、遮蔽物の裏に逃れられたのは、チーフの向井と他三人に過ぎなかった。
非常階段から目出し帽を被った長身の男が姿を現した。薄いジャケットを羽織っているが、しなやかな筋肉は服の上からでも分かる。
男は無言でダーツライフルを構え、さらに二人を葬り去る。残りは二人。
「その手際、まさか『Der Freischütz、魔弾の射手』か!?」
向井が叫ぶ。
「失礼な呼び名だ。俺は悪魔に頼らなくても実力で全弾当てる」
低く腹の底に響くような冷たい声であった。
向井は、残った部下に目で合図をし、フンガムンガを構えた。殺傷力の高いアフリカの投げナイフだ。
「うおぉぉぉ」
奇声をあげながら部下が突進する。矢上は体捌きで部下をかわすとライフルの
部下の体が痙攣し、意識を失って崩れ落ちた。矢上は視線一つ動かさずに向井へ向き直る。
向井はフンガムンガを投げつけると同時に矢上の足を狙いタックルを仕掛けだが、それを難なくかわし、右手を踏みつける。
「ぐぎゃあ」
向井の口から悲鳴ともつかない呻き声が漏れた。矢上はそのまま向かいの背後にまわると頸に右手を回して両腕で締め上げる。数秒後、向井の腕がだらりと垂れる。どうやら気絶したようだった。
矢上は心春に駆け寄り、無言で縄を解くと、右手を差し出した。
「さぁ、行きますよ、お嬢さん」
「ありがとう、マスター」
心春がギュッと矢上の腕を掴む。矢上はふっと鼻を鳴らして目出し帽を脱いだ。汗で濡れた前髪の隙間から額の傷がちらりと見える。
矢上は照れくさそうに笑った。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
「警察を手配しました。見つからないうちに帰りましょう」
そう言って心春を抱え上げると、非常階段を走り降りていく。走り去るデミオのバックミラーに、廃ビルを取り囲む赤いランプの波が見えた。
5.
その週の金曜日、相変わらず『すのうどろっぷ』に客の影はない。今日の賄いは先週と同じくエリ・ボールンデ。心春のリクエストだった。
「なんかハマっちゃって。私の一番好きなメニューです」
心春がカフェオレを片手に、羊肉を頬張る。美味しそうに食べる様子を見て矢上も、思わず目尻を下げていた。
心春は肉をよく噛んで飲み込んだ後、カフェオレを飲み一息入れる。
「ところでマスター、月曜日はありがとうございました」
矢上が照れたように頭を掻いた。
「それで、これはお礼です」
心春が鞄から小さな袋を取り出した。
「開けていいの?」
「もちろん」
箱の中身は手作りのバンダナだった。矢上が被って鏡の前に立つ。傷が綺麗に隠れている。
「若すぎないかな?」
「お似合いですよ!」
「ありがとう、大事にするよ」
矢上は緩んだ頬が心春にバレないよう、後ろを向いたまま、コーヒー豆を取りにストッカーへと歩むのだった。
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