第1章-美しき娘

― ネフェル視点 ―


陽が高く昇り、穏やかな風が町の広場を吹き抜ける午後。

石畳の上を軽やかに歩く赤髪の娘に、人々の視線が自然と集まっていた。


「ネフェル、おはようさん! 今日もいい笑顔だねぇ」

パン屋の夫婦が、籠いっぱいの焼き立てのパンを掲げる。


「おはようございます、ヨアナさん、マルクさん! この香り、いつにも増して幸せになりますね」

そう言ってネフェルは、鼻をくすぐる香ばしい匂いに目を細めた。


町一番の美人――それが、ネフェルに向けられる常の言葉だった。

けれど、それだけではなかった。

彼女は誰にでも分け隔てなく笑顔を向け、困っている人を見れば手を差し伸べる。

子どもたちには姉のように慕われ、老人には孫のように愛されていた。


何よりも、彼女の芯の強さが町の人々を惹きつけていた。


「あの大工のバルドが酒場で酔って暴れた時、片手で止めたらしいぞ」

「いや、鍛冶屋のトロワと腕相撲して勝ったって話も……」


そんな武勇伝が、町のあちこちで噂される。

だが当の本人は、肩をすくめて苦笑いするばかりだった。

「ちょっと力が強いだけで、大袈裟に言うんだから」と。


広場に面した小さな噴水のそば。

ネフェルは腰を下ろし、いつものように絵本を読んでいる子どもたちの輪に加わる。

膝に子猫をのせた少女が、きらきらとした瞳で言った。


「ねえ、ネフェルお姉ちゃんはお姫様にならないの?」


ネフェルは少し考え、首を傾げた。

「どうだろうね。でも、私は今のこの町が好きだよ。王宮に閉じこめられるなんて、退屈そうじゃない?」


その言葉に子どもたちはクスクスと笑い、誰かが「ネフェルお姫様ばんざーい!」と叫んだ。


まさかそのすぐ後、

本物の“王子”が彼女の人生を狂わせるなど――

この時の彼女は、知る由もなかった。



その日、王都からの使者がやってきた。

目を引く豪華な衣装に、馬の飾りには金の紋章。

誰もがそれが隣国の使者であると気づいた。


「姫……じゃなかった、ネフェル様に、お伝えください」

「我が国の第一王子、アルストリア=カディオール殿下が、正式に求婚のご意志を表明されております」


町の広場が、ざわりと揺れる。

空気が凍りつく。


誰かが叫ぶ。

「なにを言ってる! ネフェルはうちの町の宝だぞ!」


別の誰かが、手に持ったスコップを振り上げた。

「隣国の王子だからって、好きにさせてたまるか!」


ネフェルは立ち上がり、使者の前に進み出た。

静かに、けれど確かな声で言った。


「……そのご縁、私はお断りします」


町中が、彼女の背中を見つめていた。

その小さな身体に、皆が誇りを抱いていた。


だが。


その夜、風のように早く、噂が町を駆け巡った。


――王子は激怒した。

――町を焼き払うと脅している。

――次の月が満ちる前に返事を変えなければ、命はないと。


ネフェルは、夜の屋根に腰かけて月を見上げた。

この町を、皆を守るためにはどうするべきか――その答えを、星に問いかけながら。


月明かりが彼女の赤い髪を照らすと、それはまるで、炎のように揺れていた。

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