第1章-美しき娘
― ネフェル視点 ―
陽が高く昇り、穏やかな風が町の広場を吹き抜ける午後。
石畳の上を軽やかに歩く赤髪の娘に、人々の視線が自然と集まっていた。
「ネフェル、おはようさん! 今日もいい笑顔だねぇ」
パン屋の夫婦が、籠いっぱいの焼き立てのパンを掲げる。
「おはようございます、ヨアナさん、マルクさん! この香り、いつにも増して幸せになりますね」
そう言ってネフェルは、鼻をくすぐる香ばしい匂いに目を細めた。
町一番の美人――それが、ネフェルに向けられる常の言葉だった。
けれど、それだけではなかった。
彼女は誰にでも分け隔てなく笑顔を向け、困っている人を見れば手を差し伸べる。
子どもたちには姉のように慕われ、老人には孫のように愛されていた。
何よりも、彼女の芯の強さが町の人々を惹きつけていた。
「あの大工のバルドが酒場で酔って暴れた時、片手で止めたらしいぞ」
「いや、鍛冶屋のトロワと腕相撲して勝ったって話も……」
そんな武勇伝が、町のあちこちで噂される。
だが当の本人は、肩をすくめて苦笑いするばかりだった。
「ちょっと力が強いだけで、大袈裟に言うんだから」と。
広場に面した小さな噴水のそば。
ネフェルは腰を下ろし、いつものように絵本を読んでいる子どもたちの輪に加わる。
膝に子猫をのせた少女が、きらきらとした瞳で言った。
「ねえ、ネフェルお姉ちゃんはお姫様にならないの?」
ネフェルは少し考え、首を傾げた。
「どうだろうね。でも、私は今のこの町が好きだよ。王宮に閉じこめられるなんて、退屈そうじゃない?」
その言葉に子どもたちはクスクスと笑い、誰かが「ネフェルお姫様ばんざーい!」と叫んだ。
まさかそのすぐ後、
本物の“王子”が彼女の人生を狂わせるなど――
この時の彼女は、知る由もなかった。
*
その日、王都からの使者がやってきた。
目を引く豪華な衣装に、馬の飾りには金の紋章。
誰もがそれが隣国の使者であると気づいた。
「姫……じゃなかった、ネフェル様に、お伝えください」
「我が国の第一王子、アルストリア=カディオール殿下が、正式に求婚のご意志を表明されております」
町の広場が、ざわりと揺れる。
空気が凍りつく。
誰かが叫ぶ。
「なにを言ってる! ネフェルはうちの町の宝だぞ!」
別の誰かが、手に持ったスコップを振り上げた。
「隣国の王子だからって、好きにさせてたまるか!」
ネフェルは立ち上がり、使者の前に進み出た。
静かに、けれど確かな声で言った。
「……そのご縁、私はお断りします」
町中が、彼女の背中を見つめていた。
その小さな身体に、皆が誇りを抱いていた。
だが。
その夜、風のように早く、噂が町を駆け巡った。
――王子は激怒した。
――町を焼き払うと脅している。
――次の月が満ちる前に返事を変えなければ、命はないと。
ネフェルは、夜の屋根に腰かけて月を見上げた。
この町を、皆を守るためにはどうするべきか――その答えを、星に問いかけながら。
月明かりが彼女の赤い髪を照らすと、それはまるで、炎のように揺れていた。
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