第18話 入試日と別れの予感。
二月の空は、まるで磨き上げられた鋼のように、冷たく、そしてどこまでも無機質な色をしていた。吐く息が白く凍りつき、空気に溶けて消えていく。その冬の朝特有の張り詰めた静寂が、今日という日が僕、佐倉悠人の人生にとって、決定的な一日であることを、嫌というほどに思い知らせていた。国立大学二次試験、当日。僕たちの高校生活、いや、これまでの十八年間の人生のすべてが、この一日に凝縮され、試されようとしていた。
試験会場である大学のキャンパスへ向かう電車の中は、僕と同じように、緊張と希望、そして一抹の不安をない交ぜにした表情を浮かべた、大勢の受験生たちで満ちていた。誰もが押し黙り、手元の参考書や単語帳に最後の望みを託すように、食い入るように視線を落としている。その異様な熱気が、僕の心臓を、まるで巨大な手に鷲掴みにされたかのように、強く、そして痛いほどに締め付けた。
しかし、僕の心は、不思議と平静を保っていた。隣に座る月島鈴の存在が、僕を外界の喧騒から守る、温かく、そして絶対的な結界になってくれているからだ。彼女は、僕と同じように、参考書を開いてはいるものの、その視線は活字の上をただ滑っているだけのように見えた。彼女もまた、僕と同じように、この決戦の日の重圧と戦っているのだろう。そう思うと、僕の心に、彼女を守らなければという、強い使命感が湧き上がってくる。
僕たちは、言葉を交わすことなく、ただ、触れ合う肩の温もりだけを頼りに、その息苦しいほどの時間を耐え抜いた。やがて電車が目的の駅に到着し、僕たちは人の波に押し出されるようにして、ホームに降り立つ。大学へと続く坂道は、すでに黒い制服の集団で埋め尽くされていた。その光景は、さながら、これから始まる戦いへと向かう、兵士たちの行軍のようだった。
「すごい人の数だな」
「うん。みんな、ライバルなんだね」
鈴の声は、冬の空気のように、微かに震えていた。僕は、その小さな手を、自分のコートのポケットの中で、ぎゅっと強く握りしめた。彼女の指先は、氷のように冷たくなっている。僕は、その冷たさを、自分の体温で少しでも温めてあげたい一心で、さらに強く、その手を握った。
やがて、僕たちは、荘厳な門構えの大学の正門の前にたどり着いた。試験を受ける校舎は、学部ごとに分かれている。僕たちが、今日という一日を過ごす場所は、ここから先は、別々だった。僕たちの高校生活最後の戦いは、二人で共に戦うことは許されないのだ。
「じゃあ、俺はこっちだから」
「うん。私は、あっちの校舎みたい」
僕たちは、互いの試験教室が書かれた受験票を確認し合い、別れの時が来たことを悟る。名残惜しい気持ちが、胸を締め付ける。しかし、今は、感傷に浸っている場合ではない。
「頑張ろうな、鈴。終わったら、ここでまた会おう」
僕が、努めて明るい声で言うと、彼女はこくりと、小さく頷いた。しかし、その顔は、俯いたままで、僕の目を見ようとはしない。長いまつ毛が、その白い頬に、深い影を落としている。
「鈴…?」
僕が心配になって彼女の名前を呼ぶと、彼女は、弾かれたように顔を上げた。その瞳は、熱っぽく潤んでおり、そこには、僕が今まで見たこともないような、切実な光が宿っていた。それは、愛情と、そして、僕にはまだ理解できない、何か別の、もっと深く、そして悲しい感情が入り混じった、複雑な光だった。
彼女は、何も言わずに、僕の手を、これまでのどの時よりも強く、両手で握りしめてきた。その小さな手は、必死に何かに縋り付くかのように、小刻みに震えている。そして、次の瞬間、彼女は、まるで何かに突き動かされたかのように、僕の胸に、その華奢な身体ごと飛び込んできた。
「え…」
突然の彼女の行動に、僕が戸惑っていると、彼女は、僕の首に、ぎゅっと強く腕を回してきた。そして、僕の唇に、自分の唇を、強く押し付けてきたのだ。
それは、僕たちがこれまで交わしてきた、甘く、そして優しいキスとは、全く違うものだった。そこには、恥じらいや戸惑いといった感情は一切なく、ただ、僕という存在を、その身体の全てで確かめるかのような、必死さと、そして、これが最後であるかのような、悲壮な覚悟だけが込められていた。いつもよりも、ずっと、ずっと長いキス。その唇の熱さが、僕の理性を、完全に麻痺させた。
やがて、名残惜しげに、ゆっくりと唇が離れていく。僕の目の前には、息を弾ませ、肩で大きく呼吸を繰り返す、彼女の姿があった。その荒い息遣いが、僕の耳に、やけに生々しく響く。吐く息は白く、そして乱れていた。その音は、まるで、溺れる寸前の人間が、必死に空気を求めるかのような、悲痛な響きを帯びていた。
僕は、その荒い息遣いを、試験前の極度の緊張と、そして、僕への愛情の深さの表れなのだと、そう解釈した。その健気な姿が、僕の心を、愛おしさで満たしていく。僕もまた、彼女と同じ気持ちなのだと、伝えたかった。
「鈴、俺もだよ。愛してる。絶対に合格して、二人で、最高の春を迎えよう」
僕がそう言って、彼女の頬にそっと触れると、彼女は、一瞬だけ、泣き出しそうな顔をしたが、すぐにそれを、力ない笑顔で覆い隠した。
「うん…。頑張ってね、悠人君」
その声は、雪解け水のように、どこまでも澄んで、しかし、どこまでも儚く、僕の心に染み渡った。
僕たちは、互いに背を向け、それぞれの戦場へと、歩き出した。僕は、合格への希望と、彼女への尽きることのない愛情で、胸がいっぱいだった。彼女がくれた、あの力強いキスと、ハグ、そして、あの荒い息遣い。その全てが、僕に無限の力を与えてくれる。僕は、未来への希望に満ち溢れながら、校舎の中へと、確かな足取りで、消えていった。
僕の背中を、彼女が、どんな瞳で見つめていたのか。僕の合格という、最高の「幸運」が、僕たちの永遠の別離に繋がるのだという、残酷な運命を悟り、その愛と絶望の狭間で、ただ、立ち尽くしていたことなど、この時の僕が、知る由もなかった。僕たちの未来に待ち受ける悲劇へのカウントダウンは、今、この瞬間にも、静かに、そして着実に、その時を刻み始めていた。
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