第16話 鈴の過去からの警告(幻の親友)。


 センター試験を目前に控えた一月のある夜、僕、佐倉悠人と月島鈴は、僕の部屋で最後の追い込みに励んでいた。降り始めた雪が、窓の外の景色を静かに白く染めていく。部屋の中は、暖房の温かい空気と、二人の間に流れる穏やかな緊張感、そして、僕が淹れたコーヒーの香ばしい匂いで満たされていた。頻発していた小さな不運も、まとわりつくような奇妙な疲労感も、僕はすべて「受験前のストレス」という都合の良い言葉で片付け、意識の底に無理やり押し込めていた。今はただ、目前に迫った試験のことだけを考え、そして、隣にいる愛しい彼女との未来だけを、信じていたかった。


 しばらくの間、部屋には、シャープペンシルが紙の上を滑る音と、時折ページをめくる音だけが響いていた。しかし、その静寂を破ったのは、不意に、鈴がぽつりと漏らした、か細い呟きだった。


「…私ね、最近、よく夢を見るんだ」


 僕は、集中していた意識を、ゆっくりと現実へと引き戻し、彼女の顔を見た。彼女は、参考書から顔を上げ、窓の外で静かに舞い落ちる雪を、どこか遠い目で見つめている。その横顔は、ガラスに映る自分の姿を見ているのか、それとも、その向こうにある、僕の知らない過去の景色を見ているのか、判然としなかった。


「夢? どんな夢なんだ?」


 僕が尋ねると、彼女はゆっくりと僕の方に視線を移した。その瞳の奥には、またあの、僕の心をざわつかせる、深い影が宿っている。


「中学の時の、夢。テニス部だった頃の…親友の夢」


 その言葉に、僕は以前、彼女がこの部屋で話してくれたことを思い出した。二人でプロのテニスプレイヤーを目指していたが、途中でその親友はテニスを辞めてしまった、という話。あの時、彼女は「昔の話」だと言って、無理に笑顔を作っていた。しかし、今、彼女の口から語られようとしているのは、その笑顔の裏に隠されていた、真実の断片なのかもしれない。僕は、ゴクリと唾を飲み込み、彼女の次の言葉を待った。


「彼女はね、私なんかよりも、ずっと才能があったんだ。誰よりも熱心に練習して、いつも太陽みたいに笑ってる、そんな子だった。私にとって、彼女は親友であると同時に、憧れの存在で…ライバルだった」


 彼女の声は、まるで夢の中の出来事を語るかのように、どこか現実感を欠いた、虚ろな響きを持っていた。


「二人で、絶対に全国大会に行こうねって、約束してた。でもね、ある大会の直前に、彼女、練習中に、ひどい怪我をしちゃったんだ。アキレス腱を、断裂したの」


 その言葉は、淡々としていた。しかし、その淡々とした響きの中に、抑えきれないほどの、深い後悔の念が滲んでいるのを、僕は感じ取った。


「選手生命は、絶たれた。医者からは、もう二度と、全力でコートを走ることはできないだろうって。あれだけテニスに全てを捧げていた彼女から、テニスを奪ったら、もう何も残らない。彼女は、毎日泣いてた。そして、だんだん、笑わなくなって…学校にも、来なくなっちゃった」


 鈴の瞳から、一筋の涙が、そっと零れ落ちた。僕は、かけるべき言葉を見つけられずに、ただ、彼女の華奢な肩を、そっと抱き寄せることしかできなかった。僕の腕の中で、彼女の身体が、小さく、そして小刻みに震えている。


「その子のせいじゃない。全部、私のせいなんだ。私が、あの子の隣にいたから。私が、あの子と一緒に、全国大会に行きたいって、強く願ってしまったから…」


 彼女の口から漏れたのは、懺悔の言葉だった。しかし、僕にはその言葉の意味が、全く理解できなかった。彼女が隣にいたから? 彼女が願ったから? それが、どうして親友の不運に繋がるというのだろうか。


「そんなことない! 鈴のせいじゃないだろ! それは、ただの事故じゃないか!」


 僕は、思わず強い口調で言った。僕の腕の中で、彼女を苦しめている、その理不尽な罪悪感から、彼女を解放してやりたかった。しかし、彼女は、僕の言葉を聞いていないかのように、ただ、か細く首を横に振るだけだった。


「ううん。私のせいなんだよ。夢の中でね、いつもその時のことが、繰り返し再生されるの。コートに倒れて、苦痛に顔を歪める彼女。そして、その隣で、呆然と立ち尽くす、私。その時、私はね、心のどこかで、安堵していたんだ。『これで、彼女に勝たなくて済む』って。最低だよね…」


 彼女のその告白は、僕の胸を鋭く抉った。しかし、それは、僕が彼女に対して抱く愛情を、少しも揺るがすものではなかった。むしろ、その逆だった。彼女が抱える、そのあまりにも深く、そして重い「過去の影」。その全てを、僕が受け止め、そして、その痛みから彼女を救い出したい。彼女を守りたいという思いが、僕の心の中で、かつてないほど強く、そして熱く燃え上がっていた。


「そんなこと、絶対にない。鈴は、そんなことを思うような人間じゃない。それは、きっと、ショックで、君の記憶が混乱してるだけなんだ。自分を責めちゃ、だめだ」


 僕は、彼女の身体を、さらに強く抱きしめた。僕の体温で、彼女の心の凍てついた部分を、少しでも溶かしてあげたかった。


 しかし、この時の僕の「真の善意」が、皮肉にも、彼女の運命を、そして僕自身の運命を、破滅へと加速させる、最後の引き金になってしまったことなど、僕が知る由もなかった。


 鈴は、僕の腕の中で、ただ泣きじゃくっていた。悠人の、そのあまりにも純粋で、温かい善意。それが、彼女の心を救うと同時に、彼女の特異な体質を、最大限に活性化させていることを、彼女だけが、その身をもって感じていた。彼の優しさが、彼の愛情が、彼の運気を、凄まじい勢いで自分の中に吸収していく。その感覚は、彼女に、言葉にできないほどの恐怖をもたらしていた。


 これは、警告なのだ。彼女の過去のトラウマが、夢という形をとって、彼女に、そして、彼女を通して僕に、最後の警告を発しているのだ。これ以上、進んではいけない。これ以上、彼の善意に甘えていては、彼もまた、あの親友と同じ運命を辿ることになる。


 しかし、彼女は、その警告を、言葉にして僕に伝えることができない。彼の腕の温かさが、彼の優しい声が、彼女から、その最後の勇気を奪っていく。この温もりを、失いたくない。この幸福を、手放したくない。その抗いがたい欲望が、彼女の口を、固く、固く閉ざさせていた。


 僕たちは、ただ、互いを抱きしめ合っていた。同じ部屋で、同じ時間を共有しながら、しかし、全く違う未来を見据えて。僕は、彼女との輝かしい未来を。そして彼女は、僕が破滅へと向かう、絶望的な未来を。僕たちの運命の歯車は、もう、誰にも止められない場所へと、静かに、そして確実な音を立てて、回り続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る