蒼を映す

@nata_de_coco

第1話

 春の風が、痛かった。

 校門の白いペンキが光をはね返し、眩しすぎて目を細める。

 新しい制服の襟が、まだ首に馴染まず、何度も確認してしまう。母に促され歩みを進めるが、まるで自分の足ではないような浮いた感覚に陥っていた。

 私立蒼南そうなん高校入学式。

 その看板の前に、俺――真木蒼まきあおいは、立ち尽くしていた。

 俺は、本当は、ここに来るはずじゃなかった。第一志望だった県内トップの進学校に落ちて、滑り止めで受けていたこの学校に入学が決まった。

 あの日から、何もかもどうでもよくなった。いや、その前から、あの出来事が起きてから、俺の人生に色はなくなってしまったのかもしれない。

「全部終わったわけじゃないんだから。前を向きなさい」

 そう誰かが言っていた気がする。でも、前なんて、もう見たくなかった。

 そうして、気づけば春。

 桜のかわりにハイビスカスが咲いているこの島で、俺は蒼南高校の制服を着ている。


 体育館の天井には、鉄骨の梁が複雑に交差している。スピーカーから流れる校歌は、少し音が割れていた。

 拍手。祝辞。そのどれもが遠くに聞こえ、俺は、ただ座っているだけだった。

「蒼南高校は、自主性を重んじる学校です」

 祝辞を述べる校長の声が響く。

 ――自主性、か。

 自分で何かを選ぶなんて、今の俺にはできない。何を選んでも、最後には失ってしまうし、そもそも手に入ることだって難しい。そのことを知ってから、俺には選ぶことなんてできない。

 自分自身の思考に浸りながら、ボーっと校長の話を聞いていると、ふと、前の席の女子たちの声が耳に入る。

「放送、ちょっと、音ズレしてるよね」

 彼女らはひそひそ話している。

 確かに、マイクの声とスピーカーの音が微妙にずれている。でも、それを気にする気力もなかった。

 拍手が終わって、起立。礼。

 その瞬間、どこかでマイクのスイッチが切り替わる音がした。

 カチッ。

 なぜか、その小さな音だけが耳に残った。


 入学式も過去のことになり、多くの新入生は前を向いて、新たなことに挑戦を始めている時期。体験入部やら塾やらに向かう生徒の声が聞こえる中で、俺は、一人で絵を描いていた。

 校舎の裏の旧美術室。美術の授業でも、美術部の部活動でも使わないこの場所。

窓から見えるのは、見慣れた海と空。机の上には、使いかけのキャンバスが一枚だけ残っている。

 描かないと決めた。もう絵なんか、描かないって。

でも――筆を持たずにいると、何故だか落ち着かなくて、気が付けば、筆を握っていた。

 真っ白なキャンバスに、青の絵の具を落とす。ひと筆だけ。その線が波みたいに広がって、消えていく。

 それを見た瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。

 何を描いても、あの時の絵には届かない。絵だけじゃない。俺の心も世界も色も、すべてが壊されて、すべてが終わったあの絵には。

 俺は、もう、絵は描かない。

 そう、筆を置こうとしたその時だった。

「絵を描いてるの?」

 振り向くと、入口のところに男が立っていた。

青い名札をしているから一年生だろう。黒いカメラを首から下げて、逆光の中で笑っている。

 光に透けた髪は、少し茶色く見えた。

「……誰」

「名前? 僕は大島悠真おおしまゆうま。放送部――って言いたいけど、今はひとりだけ」

「そう」

「だから、探してたんだ。仲間を」

 その言葉に、心が少しだけざわついた。

 でも、すぐに押さえ込む。

「悪いけど、俺は部活に入る気ないから」

「なんで?」

「やる気がない」

「やる気がないなら――なんで、筆を持ってるの?」

 返す言葉が、出なかった。

 大島は机の上のキャンバスを見つめる。

 青い線の跡が滲んで空のような海のような、見慣れた景色が浮かんでいるようだった。ただの、いつもの、青。それだけだった。

「素敵な絵」

「……どこがだよ」

「この絵が生きているみたい。動いている。映画の一場面のようだよ」

 ――映画。

 その言葉に、俺は少しだけ息をのんだ。絵を「映画みたい」なんて言われたのは、初めてだった。

「俺、映像を撮るのが好きなんだ。カメラで絵を撮るんだよ。でもさ、全然駄目」

「はあ」

 こいつは突然来て、何を言っているのだろうと思った。俺の絵とこいつが映像を撮るのが好きなこととはいったい何の関係があるのだろうと。

 そう思うのと同時に、どこかで、俺の何かが動き出すような感覚もしていた。

「一緒にさ、放送部に入ろうよ」

 突拍子もない誘いだった。

 でも、その言葉の温度が、優しくて、どこか懐かしく思った。

「俺はもう――」

「絵は、描かなくていい。君の、思いを、映して」

 その一言で、何かがカチリと音を立てた。入学式の、あのスイッチみたいな音。

 光が差し込んで、白いキャンバスが少し輝いた。


「こっち」

 大島に引っ張られて、向かったのは校舎の端。旧図書棟の一角、鍵のかかった木のドア。上には「放送準備室」とかすれたプレートがぶら下がっていた。

「顧問の篠原先生が管理してるんだ。先生も昔はこの部室を使ってたって」

「へえ」

 適当に返事を返す。自分でもよく分からないまま引っ張られてきたため、正直、まだ困惑したままだった。

 ドアを開けると、埃っぽい空気が流れ出てくる。古い機材が並んでいる。マイク、ミキサー、古ぼけたカメラ。どれも年季が入っているのに、大島は目を輝かせていた。

「ここから始まるんだ」

「何が」

「俺たちの物語が」

 そう言って、大島は太陽のように眩しい笑顔を見せた。その瞳があまりにもまっすぐで、俺は気が付いたら、彼に魅せられていた。


「入部希望?」

 職員室の奥で、眉間にしわを寄せた気難しそうな眼鏡の男が言った。

 この男――篠原誠司しのはらせいじは、この学校の数学教師で、放送部の顧問だと言う。

 落ち着いた声だけど、どこか圧があるようにも聞こえた。

「はい!」

 大島が元気よく答える。

「俺さ、言ったよね。放送部は去年、廃部したって」

「俺たちが放送部です。先生が顧問」

 先生は大きくため息をついた。それもそうだろう。彼には話が通じていない。

「……とりあえず、部員は3人以上。でないと認められない。いいな」

「はい!」

 あきれたような顔で条件を告げる先生に対して、大島は元気よく返事をした。どこからその自信が出てくるのだろうかと、俺はどこか他人事のような目で見ていた。

 そんな俺の方を見て、先生は質問を投げかけた。

「君は。なぜ入る」

 その問いに、一瞬言葉が詰まる。

「……描けなかった絵の続きを、描きたいから」

 我ながらよく分からない答えだった。

 でも先生は、少しだけ笑った。

「いいさ。ちばりよ」

 ――ちばりよ。頑張れよ、か。俺たちはあまり使わなくなったその懐かしい言葉が、なぜか胸に響いた。


 放課後の倉庫は、まだ埃の匂いが抜けきらなかった。

 ミキサーの電源を入れても、赤いランプは点いたり消えたり。俺と大島はケーブルをたどりながら、コードの山にうずもれていた。

「うわ、何これ」

 背後から声がして、振り返る。

 入口に立っていたのは、髪をゆるくまとめた女子だった。制服の袖をまくり、腕には文庫本が三冊。まるで図書館帰りの人が間違えて迷い込んだみたいだ。

「白瀬! 来てくれたんだ!」

 大島が手を振る。

「いや、あんたがうるさいから……」

 白瀬千尋しらせちひろ――クラスは違うけれど、同じ一年生だったと思う。

「脚本家? 希望なんだけど」

「まじで⁉」

 大島の声が跳ね上がったと同時に、彼自身も飛び上がり、周囲に散乱していたコードが絡まって、足がもつれる。

 こける、と俺が思った時にはもうすでにコードにまみれた大島が転がってた。

「いてて……」

「ちょっと、落ち着きなさいよ」

 白瀬は持っていた文庫本を机に置くと、ため息をつきながら部室端の椅子に腰を掛ける。

「あんたが何度も勧誘するから。少し興味が出ただけよ」

「それでもうれしいよ。僕、文才とかないからさ」

「……文才なんて関係ないわよ」

 白瀬がぼそっと呟いた。大島は騒いでいて聞こえていないようだが、俺は何故だか彼女のつぶやきが引っ掛かった。

「よろしく! 白瀬」

「ええ」

 大島は明るく白瀬に挨拶をして、手を差し出した。白瀬はというと、先ほどの曇った表情は消え、優しく微笑んだまま差し出された手を握り返した。

 そのとき、カメラのカシャッという音がした。

「……え?」

 誰もシャッターを押していない。

 振り返ると、部室の奥にもうひとり、人影があった。光の差し込む窓際、三脚を立ててカメラを構えている。肩までの髪が逆光に透け、目がレンズ越しにこちらを見ていた。

「誰?」

 大島が眉をひそめる。

桐谷玲きりたにれい。一年。カメラ、好き?」

 表情を変えずに淡々と短く名乗った彼女は、またファインダーをのぞき込む。

 独特で不思議なオーラの漂う桐谷に対して、大島は臆さず問いかけた。

「いつ来たの?」

「今」

「今⁉」

 大島が慌てて駆け寄る。

「篠原に頼まれた」

「先生⁉ なんで?」

 いろいろと突っ込みどころはあるが、まずは何故彼女がここに来たのかを問う必要があるだろう。大島も同じように考えていたのか問いかけを続けた。

「おじさんなの」

 答えになっていない。きっと、篠原先生は桐谷の叔父であり、知り合いだったため、カメラが好きな彼女は放送部を勧められたということなのだろうが。

 先ほど来たばかりの白瀬はもちろん、大島も俺も頭にはてなマークを浮かべて、ぽかんとしていた。

 桐谷は何も言わず、レンズを回している。

 ファインダーの奥で光が弾けた瞬間、埃の粒が金色に浮かび上がった。まるで、誰かが部室に魔法をかけたみたいだった。

「……何、撮ってるの?」

 俺は尋ねた。

「光」

「光?」

「ここ、夕方になると海の反射が入るから。画面の中で、風が動くのが分かるの」

 桐谷の声は小さいのに、妙に届いた。

 大島も白瀬も、その言葉を聞いてファインダーをのぞき込む。画面の中で、窓の外の海がゆらゆら揺れている。

「……綺麗」

 白瀬がぽつりと言った。

 桐谷はカメラを下ろし、静かに言った。

「入部希望。よろしく」


 大島が両手を叩いて仕切り始める。

「よし、これで四人! 脚本は白瀬! 撮影は桐谷! 監督は真木! 編集は僕!」

「俺が監督かよ」

 俺がすぐツッコミを入れる。

「お前しかいないよ。よろしくな」

 そう言って笑う大島につられて、俺の口からも自然と笑みがこぼれていた。

 夕陽が差し込む部室で、埃が光を受けて舞っている。カメラのレンズが、その光をひとつひとつ吸い込んでいく。

 絵を描かなくても、光は描ける。「映す」って、こういうことなのかもしれない。

 ――もう少し、この光を見ていたいと思った。

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