第1章 世界樹の庭【1】
意識が覚醒すると同時に、背中に叩きつけられるような感覚があった。目を開くと、空気が勢いよく舞っていく。水の中に落ちたのだと自覚するのに数秒かかった。よりによって、転生した瞬間に水中へと落とされたのだ。それでも、頭の中の冷静な部分が自分に問いかけた。
(再生か破滅か……俺には荷が重いぜ……)
肺の中の空気を吐き出そうとした瞬間、腕を強く掴まれる。物凄い勢いで体を引かれ、空気を失うより早く水面へと引き上げられた。
「アストラ様!」
「王陛下! ご無事ですか!」
無事なわけない、と思いつつ飲み込んだ水を吐き出す。素早く引き上げられたことで、幸いにも水は大して肺を侵していなかった。優しい手が背中をさする。ややあって呼吸が落ち着こうという頃、自分の周囲にふたりの人物の姿があることに気付いた。背中をさするのはどうやら女性で、自分の前で膝をつく人物は鎧を纏っている。
「アストラ様……落ち着かれましたか?」
女性が優しく問うので、頭の中に先ほどまでの光景が浮かぶ。あの死神が、女神が彼に付けた名として「アストラ」と口にしていた。この世界での彼の名はアストラ。この女性は彼に問いかけているらしい。
「ああ……なんとかな」
何度か深呼吸を繰り返し、アストラは顔を上げる。目の前で覗き込む青い瞳と視線がかち合った。短い茶髪の、重厚な鎧を着込んだ青年だ。その見た瞬間、アストラの脳裏に死神が浮かぶ。
「お前……スクワイアか」
アストラの言葉に、青年はハッとした様子で深く頭を下げる。直感のようなもので、なんとなくだがわかった。この青年は、死神がこの世界に招いた転生者の「スクワイア」で間違いない。死神に導かれ、アストラを待っていた存在だ。
「俺はウォーロック。この意味、わかるな」
「はっ。ゴード神がお選びになられたのですね」
「ゴード神……ってのは、死神のことか?」
「エウル神はそう呼んでいるようですね」
死神――“ゴード神”と対峙した女神を思い浮かべる。あの女神が“エウル神”なのだろう。あの女神は「その者はあなたを呪う死神です」と言っていた。「ゴード神」と呼ばれているということは、死神であるのは見た目だけだったようだ。
アストラの背後にいた女性が彼の肩にタオルをかける。緑色の瞳と赤毛のお下げが可愛らしさを感じさせる少女だ。少女は柔らかく微笑む。
「この者は侍女のアモル」スクワイアが言う。「私たちの事情を知っている唯一の家臣です」
「そうか」
周囲に他の者の姿はない。そばに池があり、彼はこの世界の入り口として水面に落とされたらしい。もっとまともな入り口はなかったものかと、ゴード神を恨んだ。
「スクワイア、お前はどう思う。世界の再生か、破壊か」
アストラは真っ直ぐにスクワイアの青い瞳を見据える。スクワイアは力強く見つめ返した。それから、ふっと穏やかに微笑み、首を横に振る。
「私には決められません。その権限がないのです」
「そうなのか?」
「はい。それをお決めになるのは貴方様です」
ふむ、とアストラは顎に手を当てる。スクワイアのほうが先にゴード神に会いこの世界に来たようだが、世界の存続を任されることはなかった。なぜゴード神はスクワイアにその権限を与えず、アストラに「ウォーロック」の名を授けたのか。
「アストラ様! どこですか!?」
「王陛下! ご無事ですか!」
アストラの思考を切るように、池を囲む森の奥から声と金属音が聞こえる。その声から察するに、他の者がアストラを探して走り回っているのだ。その声は徐々に近付いているようだった。
アストラは小さく息をつきつつ立ち上がった。この声の主たちがここに来てアストラを見つければ面倒なことになる。アストラにはそれがすぐにわかった。
「では、ゴード神に従おう。俺たちはこのまま消える」
「はい」
アストラは、スクワイアとともに旅をすることをゴード神から命じられている。それはスクワイアも承知していた様子で、頷いたスクワイアはアモルを振り向いた。
「私たちは先に街へ行く。きみは王宮に戻って支度を」
「かしこまりました」
アモルは恭しく辞儀をして、声の方向へと駆け足で去って行く。行きましょう、とスクワイアがアストラを反対方向に促した。
「もしかして、あの子も一緒に行くのか?」
「アモルは私たちの事情を知っています。旅には厳選した供が必要になりますよ」
スクワイアはアモルのことを「侍女」と言っていた。確かに、身の周りの世話をできる者がそばにいることで助かることもあるかもしれない。アストラは前世では庶民であったため身の周りのことは自分でできるが、炊事や掃除には自信がない。侍女がいるならそれはありがたいことだった。
「しばらくはずぶ濡れか」
「それならご心配は要りません」
「ん?」
「ご案内します」
スクワイアには何か当てがあるらしい。ここは従ったほうがいいようだ、とアストラは頷く。
そこでアストラは、ようやく頭が冷静さを完全に取り戻した。先ほどから耳にしていた言葉がやっと脳に到達する。
「陛下と言ったか?」
「はい、アストラ様は、このオクターヴィル王国の国王陛下であらせられます」
「なるほどな」
まったく「なるほど」ではない。ただこの世界の再生か破滅かを選ぶなら、転生先が王である必要はない。アストラはそう考えたが、ゴード神が訳もなく高い身分の者をこの魂の入れ物に選ぶとは思えない。この身体には、アストラに必要な何かが揃っているのだろう。
「王が突然、姿を消す……というわけか」
「そうせざるを得ません。ご自覚がおありにはならないでしょうが、いまのアストラ様は子どものお姿になられています」
「ああ、どおりで……」
先ほど立ち上がったとき、スクワイアの頭が随分と上にあると思っていた。ちょうど子どもと大人の身長差くらいだ。改めて手を見てみると、まだ幼さの残る丸い手をしている。素足なのは水に落ちた際に靴が脱げたのだと思っていたが、足が小さくなったため水中で抜けたのだ。足を見下ろした際に、頬に髪がかかった。肩ほどまでの長さの髪は浅葱色で、前世の世界ではよほどでない限り見掛けない髪色だ。実にファンタジックである。
「アストラ王陛下はもっと大人の男性です。いまのままでは、どちらにせよ面倒なことになりますよ」
「ふむ。ではしばらく“アストラ”の名を捨てる。俺はウォーロックだ」
前世の人生を閉ざし、女神から授けられた名を捨て、死神の祝福を取る。それがウォーロックにどんな運命を授けるか、いまはまだわからない。それでも、彼はこの世界に生きるウォーロックとして歩むしかないのだ。
「仰せのままに、ウォーロック様」
「様は要らない」
口を「へ」の字に曲げるウォーロックに、スクワイアはきょとんと首を傾げる。
「ウォーロックは王じゃない」
「ええ。では……ウォーロック。敬語はお許しいただけるとよろしいのですが……」
「硬すぎる。もっと砕けた敬語を使え」
「かしこまりました」
「わかりました、だ」
「わかりました」
スクワイアは困ったように笑っている。ウォーロックの前世が王でないことは承知しているだろうが、アストラが王であるということが頭から抜けるまでは、まだ時間がかかることだろう。それはこの先、ウォーロックを接していくことで頭に叩き込んでもらうしかない。ウォーロックは、アストラ王ではないのだ。
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