第3話 沈黙の午後

 その日は、風がやわらかかった。

 春と夏のあいだにある、名前のない季節の匂いがしていた。

 放課後の校舎は静まり返り、廊下の蛍光灯がゆるやかに唸っている。

 星野壮流は、写真部の部室の前で立ち止まった。

 扉の隙間から覗くと、朝倉凛が一人、暗室の赤い灯の下にいた。

 フィルムを水に沈め、そっと揺らしている。

 その動作が、まるで祈りのように静かだった。

「また光、撮ってるの?」

 壮流の声に、凛は振り向かずに微笑んだ。

「ううん、今日は“影”」

 水面に浮かんだ写真には、窓辺に座る少女の輪郭が映っていた。

 顔はぼんやりと霞んでいて、誰なのか分からない。

「これ……誰?」

「たぶん、わたし。けど、そんなに自信ない」

「自信?」

「だって、写ってる自分って、いつも自分じゃない気がするから」

 彼女の声には、かすかな寂しさが滲んでいた。

 赤い光が彼女の頬を染めて、影を濃くしていく。

 壮流は、何か言おうとしたが、やめた。

 沈黙の方が、言葉よりも正確に伝える気がしたからだ。

 しばらくして、凛が言った。

「星野くんって、いつも考えてるようで、考えてないよね」

「それ、どういう意味?」

「うまく言えないけど……」

 彼女はフィルムを吊るしながら続けた。

「何かを掴もうとしてるけど、掴んだ瞬間に手を開いちゃう。でも、それって悪いことじゃないと思う」

 壮流は黙っていた。

 確かに、自分はいつもそうだった。

 何かを強く抱きしめようとすると、

 その重さに耐えきれず、手を放してしまう。

 窓の外から、チャイムの音が響いた。

 六時の鐘が、校庭の端まで届く。

 赤い灯が消え、暗室はゆるやかに闇に沈んだ。

 ふたりで廊下を歩く。

 誰もいない校舎を抜けると、空は群青に染まっていた。

 グラウンドでは野球部の声が風にちぎれている。

 凛がふと立ち止まり、空を見上げた。

「ねえ、星野くん。沈黙って、怖い?」

「……うん。たぶん、少し」


「わたしはね、好き。

 誰も喋らない時の方が、世界がほんとの形に戻る気がするから」

 その言葉を聞いて、壮流は横顔を見た。

 その頬に、沈みゆく陽が淡く触れていた。

 家に帰る道すがら、壮流はふと思った。

 ——沈黙。

 それは、何かを失った音ではなく、

 これから何かが生まれる前の、静かな呼吸なのかもしれない。

 その夜、机に向かってペンを取ると、

 ノートの片隅に、なぜかこんな言葉を書いていた。

「沈黙は、幸福のはじまりのような気がする」

 その意味は、自分でもまだ分からなかった。

 ただ、心の奥に何かが灯ったような感覚だけが残った。

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