ラブコメディの後始末

伊阪 証

くたびれきった心の奥に

この学校には、嘗て恋の嵐が渦巻いていた。

一枠の席を争った結果は散々なものだ、一人の男を狙った女達は、自分の身と我すら忘れ失敗した。


「・・・という訳だ。」

「ああ、道理で僕が半殺しにされた訳です。」

「物は盗まれるし人は死ぬ、コンビニは全部撤退したぜイェーイ!だから気を付けるんだな。」

「桜田さん?」

「リアでいい、その名前は捨てれなかった。」

「リアさん、もう僕は引っ越すべきですか?」

「ダメだと言う為にここに来た。こんな田舎選んでる時点で親の事情だろ、だから無理だろうし。」

「いや・・・そういう訳では・・・。」

「そうなのか?・・・じゃあもう少し聞いて考えてくれ。」

普通に帰りたい、とは思いつつも状況は違う。

保健室から戻る途中だった。

道すがら、割れた窓ガラスを塞ぐガムテープが風に煽られてパタパタと音を立てている。

掲示板は半分焼け焦げており、残った片側には落書きと「入らないで」の貼り紙が二重に重なっていた。

教室の扉も、建てつけが悪く、きしんだ音を立てて開いた。

そこにいたのが、リアだった。

桜田ミリア。

過去の混乱を知る者なら誰もが、その名前に何かしらの感情を抱く。

だが彼女は、至って普通に、そこに座っていた。窓枠に片腕を乗せ、足を組んで、外の空を見ていた。姿勢に緊張感はなく、それがかえって場を支配していた。

目の前の異常な日常を、頭のどこかで受け止めながらも、とにかく言葉を返しただけだった。

「汚いですから、そこ。」

「ん?・・・ああ・・・いつもの癖でな。向くのがなんか躊躇し続けて・・・結果負けたのさ。捲って捲って捲って・・・でも、最初から最後まで、譲らなかった、それだけだ。」

「過去話ですか?・・・まぁ、役に立つなら良いですよ?」

「アイツはいっつも抜け出しやがるんだ、だからここで待ってた。誰かしら助けて、誰かしらの問題を終わらせて・・・いつも誰かがいた。」

その言葉には、どこか置き去りにされた人間の静けさがあった。

リアは小柄だった。だが、その身体の小ささが生む影は、不思議と大きく見えた。

黒いカーディガンをゆるく羽織り、トートバッグを肩にかけたその姿は、整っているというより、削ぎ落とされたような質感だった。

髪は短く揃えられていて、整髪料の類いは使っていない。靴は履き古され、絆創膏の貼られた膝だけが少しだけ生活感を主張していた。

立ち姿には威圧も誇示もなかったが、それでも場を支配していた。この教室で、彼女だけが「覚悟のあと」を知っている。

そんな気配があった。

・・・その、傷は恋の最中のものではない。

「・・・そうですか。」

それを見た上でそう返した。

「所で、こんな高校に来るなんて気でも狂ったか?」

「僕は飛び級をフル活用して今研修中ですが年齢的に特例が多過ぎて授業も受けてるだけで所属は保健室です。」

「確かに事故も事件も多いけどそこまでか?」

「いえ、研修です。」

「・・・あー、そうか。あまりに荒れすぎて保健室が病院として隣にあるんだった。」

「学校の構造が法律守れてない状態でよく見過ごされてますね。」

「仕方ねぇだろ権力者の意向だ。流石に地域の数パーとはいえ結構な人数がアレな輩になったら抑えようがない。」

リアは小さく肩をすくめながら、何度か首を回して視線を宙に泳がせた。教室の中には張り替えの間に合っていない掲示物が何枚もあり、紙の端がめくれたまま壁にぶら下がっている。彼女の言葉に重さはなかったが、それは慣れきった無力感と、諦めの形をした現実主義が混ざった結果だった。汚い窓枠を拭き、背を預けたまま、小さく溜息をつく。言っている内容は正論だし、問題意識もある。それでもそれを口に出しても、何も変わらないことだけは既に理解していた。彼らはまだ、瓦礫の上に立っているのだ。再建とは遠く、崩壊の余波の中で、せめて誰かが正気を保とうとしているだけだった。

「・・・このクラスは、割と平和なのさ。他の所には行かない方がいいぜ。」

「はぁ、まぁ、見ないでおきますよ。」

「その意気だ。」

それは彼女が一番努力していたと知っているが故の判断か、あるいは、もう誰にも何も壊させたくないという防衛本能のようなものかもしれなかった。リアの横顔を一瞬だけ見た。無表情に見えるその輪郭の裏で、どれだけの修復作業が行われてきたのかを、彼は少しだけ想像していた。何も起きないように、誰も傷つけないように、ただ静かに保たれたこのクラスを「平和」と呼ぶ彼女の声は、どこか祈りにも似ていた。

「・・・ん?」

若干の轟音、壁越しの木の割れる音。廊下の空気が少しだけ重く感じたのは気のせいじゃなかった。教室のドアを開けた彼の目にまず飛び込んできたのは、角の先で何かを叫んでいる数人の姿だった。制服の乱れ、持ち上げられる椅子、腰を落とした姿勢から足が伸びる。どう見ても既に口論ではなく、実力行使に入っている。迷いなく歩を早めた。階段の下、手すりのそば。揉み合っていた二人の間に無理やり体を滑り込ませた瞬間、何かが触れた。肩口を肘で引っかかれ、胸元を誰かの手が掴む。片手でそれを払い、もう片方で誰かの腕を止めようとしたが、視界の端では既に別の蹴りが放たれていた。反射的に踏み込んだ足元に何かが転がり、わずかにバランスを崩す。体勢を立て直す前に、背中を押されるような感覚。揉み合いの中心に吸い込まれる形で、存在そのものが巻き込まれていく。

「・・・転校生!!」

動きの荒さは、最初から衝突を目的にしたものではなかった。偶発的な喧嘩ではない。むしろ、そこには明確な「的」が設定されていた。彼がその中にいること、それ自体が引き金になっている。殴られたのは偶然ではなかった。掴まれたのも、押し倒されたのも。目の前の一人は、睨んだ視線の奥に、かつて心を許しかけた面影を映している。そのことに彼自身が最も早く気づいていた。だからこそ、動けなかった。振りほどく腕も、跳ね返す脚も、ただ制御されているだけのように鈍い。彼女たちは彼を見ていない。その奥にいた、かつて逃げられた誰かの影を殴っていた。暴力の手は荒く、それでいて遠慮がなく、冷たかった。怒鳴り声も罵声もなかった。ただ感情だけが、彼の身体を通して擦れ合っていた。彼は倒れかけた体をなんとか支え、攻撃が終わるのを待つようにその場に留まり続けた。踏みとどまることしか、できなかった。

彼女たちは彼を見ていない。その奥にいた、かつて逃げられた誰かの影を殴っていた。暴力の手は荒く、それでいて遠慮がなく、冷たかった。怒鳴り声も罵声もなかった。ただ感情だけが、彼の身体を通して擦れ合っていた。彼は倒れかけた体をなんとか支え、攻撃が終わるのを待つようにその場に留まり続けた。踏みとどまることしか、できなかった。彼は知っていた。今、腕を振るえば、ただの喧嘩になる。言葉を返せば、逃げと誤解される。これは制止でも自己防衛でもない。彼女たちにとって、これは精算だった。巻き込まれたのではない。選ばれたのだ。その意味を理解してしまっている限り、手を上げることなどできなかった。

「・・・は。」

断末魔は、小さく、短い。

頬骨のあたりに鈍い痛み。打撲。腫れが出る前に冷やせば痕は残らない。上腕の外側、擦過傷。制服の布地で二度引っかかれた箇所が赤くなっている。洗浄して乾かせば処置は済む。右脇腹に衝撃。誰かの膝が入ったか、あるいは倒れたときに段差にぶつけた。皮下出血は避けられないが骨に異常はない。呼吸に痛みがないことを確認。膝裏に引っかき傷。出血は少ないが歩行のたびに滲む。ガーゼとテーピングが要る。首筋に爪跡。四本、正面から。相手の爪は割れていない。噛み跡ではないことを確認。手指は無傷。ただし、指の関節に違和感。防御時に突かれたか、関節ごと押し返された可能性。可動は保たれている。足の甲に重量がかかった痕跡。誰かの踵か。骨折はしていない。靴の中で指が擦れている。手当は必要だが、いま問題ではない。

「転校生!どこだ!!」

駆けつけた時には既に数人が彼の周囲を囲み、手を止めかけていた。空気に躊躇が生まれたのは、彼女が視界に入ったからではなく、足音がその場に適さないほど真っすぐだったからだ。制服の裾が翻ると同時に一人を押しのけ、肩を掴み、壁際へと引き剥がす。躊躇はない。制止の言葉もない。

「どけ!関係無い人間にも手を出すのか!!」

誰が相手かも関係ない。手を振り払おうとした者の腕は即座に固められ、背中を向けた者は後ろ襟を掴まれて床に叩き伏せられた。力ではない。判断と速度が、そこにいた全員の上を行っていた。誰もが追いつけないまま動きを止められ、気づいた時には誰も攻撃できる位置にいなかった。彼女の表情は静かで、それが恐ろしかった。平穏を求める者の動きではなかった。混乱を断ち切るために選ぶには、あまりに鮮やかで容赦がなかった。誰かを救うために動くということ。それは、かつて彼が彼女に見せた姿と、あまりにもよく似ていた。気づけば、いつも隣で見ていた。肩を並べることはできても、並んだまま歩くことはできなかった。彼が前に出れば、彼女もそうした。だから、彼は恋人になれなかった。彼女は彼を追いかけてしまった。あまりに同じ方向を向きすぎて、違う意味を持つには至らなかった。ただ助けること。それが彼女の答えであり、その背中は今も、かつてと何も変わっていなかった。

倒れたまま、誰もが距離を取った中で、彼だけが口を動かしていた。誰にも聞かれたくて言っているわけではない。独り言というにはあまりに整理されていて、記録というにはあまりに低く、弱かった。

「打撲、右の上腕、変色あり。擦過傷、二箇所、うち一つは乾燥途中。肋部に鈍痛、呼吸に支障はなし。膝裏に裂傷、出血は軽度、ただし歩行時に再出の可能性。頬骨の腫れ、冷却処置未実施。爪跡、正面、全指揃い、皮膚破損は小範囲。指の関節に圧迫感あり、脱臼ではない。甲部に踏圧痕。手当は必要だが、いま問題ではない。」

彼女の手がその音を断ち切った。

「・・・大丈夫か?」

彼は気づいていなかった。声が漏れていたことも、誰かが近づいていたことも、腕を掴まれるまで。乾いた息を吐きながら身体を起こそうとしたそのとき、視界にスカートの影が入る。引き起こされるよりも早く、肩を押さえられ、目線を戻され、行動を止められた。

「・・・転校生?」

「ああ・・・良かった。先の内容を覚えているなら・・・。」

「ああ、保健室に・・・。」

視線が合っていなかった。問いかける声は正面を向いていたが、返される言葉はどこか遠くを見ていた。誰も気づいていないような情報を、彼は当然のように前提にしていた。その口調に、驚きよりも確認の色が強い。確かめるまでもないと思っていたかのように、静かに、落ち着いていた。呼吸に波がない。怪我をしていたのは確かだが、それが行動を阻害するほどではなかった。彼女はそれを認識するより先に、次の確認へと進んでいた。

「ええ、保健室に、周囲の人間全て連れて行ってい言った通りに治療を・・・。」

彼女は言葉の続きを途切れさせたまま、視線だけで周囲の動きを確かめていた。誰が動けるか、誰が動かないか、それを確認するように瞳だけが忙しく動いていた。息は上がっていない。感情を抑えているというより、最初からその段階を通過しているような、決着後の処理を始めた人間の目だった。

「・・・そっか、でも悪いが、転校生優先だ。」

「賢明な判断です。医療従事者してみませんか?」

「お前、怪我させないのと怪我しないのを両立させる為に首を守ってたんだろ?」

「バレました?」

「怪我しといて会話に一切支障ない時点でな。」

「耳が多少壊れようと老人の会話より聞きやすいですから。」

目を閉ざしているのも、それが理由か。周囲の情報を遮断することで、他者の動きと距離だけに集中していた。不用意な判断をしないために、視界という刺激を自ら切ったのだろう。自衛ではなく、被害の抑制。受ける側でありながら、攻撃者の加害範囲を最小化するための姿勢だった。反射を抑えるには、予測と制御が必要だ。首を守っていたのも、防御の要ではなく視線を逸らさないための選択。その程度のことは、彼の中では一貫していて当然だったのかもしれない。

「ああ、クソ。これじゃ怒るのも仕方ないな。」

割り切ろうとした感情が、実感を伴って咀嚼された。憤りというほどではない。ただ、受けた行為を正当化するには、あまりにも理由が整いすぎていた。暴力は暴力でしかないはずなのに、それが行き場を持っていたことに、彼は納得してしまった。その納得が、余計に苛立たしかった。怒る余地がないことが一番厄介だ。だからこそ、それでも残る痛みは、誰のせいにもできなかった。

「謝る訳じゃないが、また怪我を負う覚悟は出来てるか?」

その問いかけに、考える間すら必要としなかった。痛みを理由に足を止める選択肢を、最初から持ち合わせていないのだろう。理解した上で、それでも進むつもりでいる。その覚悟が、脅しにも確認にもならなかった理由は、彼の態度に揺らぎがなかったからだ。選ぶのではなく、当然のようにそこに立っていた。

「勿論、良いですよ?」

即答の明るさに対し、返す側は一呼吸置いていた。軽さを受け止めたうえで、それが本気かどうかを、まるで噛みしめるように沈黙が伸びた。問いの重さを理解していないとは思わなかった。ただ、その理解が“許容”なのか“同調”なのか、言葉の先にある意味を見定めようとしていた。軽くうなずくだけでは済まない。痛みを知った上で、それでもなお他人の痛みを受け入れると言うのか。その確認は、優しさではなく、責任を問う念押しだった。

「頑張って男を愛したけど振られちまった女達だ、人生がそれだけだと思った位に頑張った一世一代なんだ。失望と絶望ばかりの中で選んだ光なんだ。」

言葉の調子が、少しだけ落ちた。それまで事実を語るように淡々としていた声が、過去を抱えた誰かのように、わずかに震えた。論理では支えきれない感情が、説明の隙間から染み出してくる。選んだ光。それは救いだったかもしれないが、同時に、そこへすがる以外に何も残っていなかったということでもある。強く言おうとした意志が、最後のひと押しで崩れかけている。そんな声だった。

「どうか、どうか、見捨てないで欲しい。私含めて。」

声は届いたはずなのに、返ってくる気配はすぐにはなかった。まるで空気が止まったような一瞬があった。誰も遮らず、何も動かず、ただその言葉だけが、場に残った。訴えるというより、預けるような響きだった。強くもなく、弱くもなく、けれど確かに、自分を含めた願いだった。

「・・・お願いします・・・。」

求める声ではなく、託す声だった。応えなければという圧力もなければ、拒まれたくないという哀願でもない。ただ、自分の輪郭ごと差し出すように放たれたその言葉が、空気の奥でしっかりと響いていた。間違いなく届いたという実感があった。だから返す言葉は、気遣いでも慰めでもなかった。自然に出た、けれど明確な意志だった。

「いいですよ、僕は・・・。」

どこか、その声には抑えきれなかったものが滲んでいた。必要な分だけ返すはずの言葉に、自然と余分な熱が混ざっていた。もっと届けなければならない、そう思っていたわけではない。けれど、足りなかったものを埋めるように、抑えた口調の奥に芯のある響きが宿っていた。

「最初からそのつもりでやってきましたから、君を振った男の従兄弟として頼まれただけです。母に無茶振りして。」

背中に感じる重みは、自分のものでありながら、どこか借り物のようだった。頼りなくぶら下がる両脚に、情けなさがなかったわけではない。けれど先ほどの一件で、その印象は確かに変わっていた。弱さを認めた上で、それでも立ち向かう姿を見た。対等ではない。それでも並び得ると、ようやく思えた。だから背負う者も、背負われる者も、どこか重荷を手放したような空気があった。

「僕の名は古依マヤ、フルヨマヤです。」

名前を名乗った時、足取りはほんの少し軽くなっていた。それは怪我が癒えたからではない。歩調が揃いはじめたことに、ようやく気づいたからだった。

「同意したな?」

「え?あ、はい。」

「確保したぞ!全員連れてけ!!」

「「「サー!!」」」

「え!?誰!?」

「有田ミラ、軽部レイ、安部シン。仲間だ。」

「見えない中で解説ありがとうございます!でもそんな生易しいものじゃないでしょこれ!!」

「ラチって言うと物騒だけどラッチって言えば楽しそうだよな?」

混乱の中心で声が重なり、場の空気は制御の効かないまま加速していく。だがその喧騒を切り裂くように、短く強い一声が上がった。

「姫、今から行く。」

それだけで空気が変わった。どこか遠くにいた誰かが、いよいよ動き出す気配。これから赴くのは、ある男の妹が暮らす家。扉は閉じられていないが、容易には入れない。挑むべき相手は、冷酷に徹してなお、残酷にはなりきれなかった者。誰よりも痛みを知ってしまったからこそ、静かに他人を拒む。悲しい一人の姫。その名を背負いながら、彼女は誰の城にも、もう戻れなかった。




全員の名前世界遺産はどう考えてもダメだよ俺。

桜田ミリア→サグラダ・ファミリア

古依マヤ→古代マヤ遺跡

有田ミラ→アルタミラ洞窟

軽部レイ→スカラ・ブレイ

安部シン→アブ・シンベル神殿

正直続けるのキツいよこれ。


リア「そこまでよ!」

マヤ「それ別のリアだな。」

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