03 ”償い”……さだまさしと殺人【2003/01/14 「允許」】

 ■私は、昨年2002年にこちらでさだまさしの”償い”について触れた。


 それは、”償い”に関する三軒茶屋駅事件の判決のニュースがあった為、改めてこの歌を聴き、「落涙」した為だ。

 特にラストの「ありがたくて」と「とまらなくて」の繰り返し、「神様へ叫ぶシーン」と「人間に哀しみを投げかけるシーン」がぐっと来た。


 さだまさしはその詞(詩)についてよく取り上げられるが、これもまた秀作のうちのひとつであろう。

 実際の出来事を元にして作られたと言う事にニュースは飛びついていたが、さだまさしの悪気の無い眼力、表現力、構成力の賜物である。


 「さだの素~さだまさしベスト・初級入門編~」の「感動の素」より、ライナーノーツに”償い”についての短い言葉があった。


 ***


**ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない……ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしていないのだ**

 山本周五郎『ちくしょう谷』より


 ***


 私は「允許」しているのであろうか。

 いや、きつい程「允許」していない。

 自覚するほど他人と自分の過ちを「允許」していない。

 酷い│ひとだと思う。


 昨年、友達が二名亡くなった。

 それは私が殺した様なものである。


 一人は、私が苦しんでいる事、子供とSEXについて、ズケズケと荒らして踏み込んできた。

 私は言葉で嫌がらせを続けられたと感じた。

 一人は私の信頼を裏切った。

 自分の苦しみを認めずに、私の事を慮っての事だと乱文をよこした。


 私から別れを告げた。

 だから、私が殺した様なものなのである。


 私は何も”償い”を行えていない事になる。


 こんな事を「允許」できないのであるから。

 それも「初めからゆるしていないのだ」に匹敵する。

 だから私は酷くそして醜い。


 その心情一年経っても変わらず、

 私は「允許」できない、下手くそな生き方しかできない俗物である。


 さだまさしの”償い”に私は裁かれる……。


 ◇◇◇


 ■誰だって辛い。


 皆さん、お分かりでしょうが、誰だって辛い思いをしています。

 それを何とか「愛情」で救えないでしょうか。

 一緒に負けないで欲しいと思います。

 いつでも再燃しましょう……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る