第4話 ホテルはホテル
名前も知らない彼女を背負い、なんとか駅が見える距離まで来た時、私は思わず足を止めてしまった。ビルの影を抜けて視界が開けた瞬間、目の前に広がった光景に、息を呑む。
駅前は、夜中だというのに昼間のような騒ぎになっていたのだ。
「……なにこれ」
人、人、人。いったい何人いるのかと数える気力すらなくなるほどの人だかりが、改札前から道路のほうにまで広がっている。ざわめきに混じって「全然動かないらしいよ」「タクシーまだかよ」といった断片的な声が耳に入ってきた。
嫌な予感がして、スマホを取り出し交通情報を確認する。
表示された文字を見て、私は深いため息を吐いた。
「うそでしょ……」
そこに書かれていたのは、人身事故による運転見合わせが起きているということ。しかも、すぐには再開の見込みなし。つまり、この人ごみは帰るに帰れなくなった人たちというわけだ。
正直、ここから家まで歩くのは無理だ。足が棒みたいで、一歩進むごとに膝から悲鳴が上がる。タクシーに切り替えようかと思ったけれど、この人数を見ればいつ捕まるかわかったものじゃない。
乗れるまで背負ったまま待つのも無理だし、タクシー乗り場に置いていく……のは流石に出来ない。だったら――――
「……ホテルしかないわよねぇ」
結局そう結論づけて、検索アプリで近くのホテルを探した。
駅前にあるビジネスホテルか、少し歩いたところのカプセルホテルでもいい。とにかく、休めるならそれでいい。
店で彼女はあれだけ飲んでおきながら、「明日は休みだから大丈夫でーす」なんて言っていた。私も休みだし、まあ今夜は泊まるしかないだろう。もちろん代金は彼女が起きたらきっちり請求するつもりだ。店の代金も含めて、色を付けてまとめて返してもらおう。
……ついでにマッサージくらい奢ってもらわないと割に合わないけれど。
そう心の中で皮算用をしながら、空き室が表示されたホテルへ足を向けたのだけれど――。
「……うそでしょ」
到着して、思わず二度目の呟きが口から漏れた。慌ててスマホで調べ直す。
確かにホテルはホテルだ。外観は多少派手だけれどホテルそのものだし、看板には"24h OK"と書かれている。
……ただし、よく見れば、それがいわゆる「ラブホテル」だということを除けば、だ。
検索に引っかかったのがまさかのラブホだったなんて、夢にも思わなかった。けれども、もうどうしようもない。足は限界で、今から他の普通のホテルまで歩く元気なんて欠片も残っていない。ここにたどり着くまでにもそれなりに歩いている。
それに、相手は同性だ。入ったところで何があるわけでもない。だったらラブホと普通のホテルに違いなんてない。
「はぁ……いいわよ、もうラブホで。文句なんて絶対言わせないから。わかった?」
背中の彼女に聞こえるように、わざと声を大きめにしたけれど、もちろん返事は返ってこない。相も変わらずぐっすり眠っていた。
覚悟を決めて自動ドアをくぐった瞬間、独特な冷気と香水の混じった甘い空気が肌にまとわりついた。
目の前には、ピンク色の照明に照らされたロビー。壁際には煌びやかなイルミネーションのついた部屋パネルが並び、どれも写真付きで「休憩」「宿泊」「延長」などの文字が踊っていた。
そのとき――――ちょうどエレベーターから出てきたカップルらしき男女とすれ違った。あからさまにぎょっとした顔をされたので、「違うから、あなたたちとは違うから」と心の中で叫びつつ、目に力を込めて睨み返す。……そのせいで余計に誤解されたかもしれないけれど。
フロントのパネルで一番安い部屋を選び、どうにかたどり着いた部屋は、予想以上に独特な雰囲気を放っていた。壁紙は濃い赤と黒を基調にしていて、妙に落ち着かない。天井には薄くピンクの間接照明が埋め込まれていて、全体に仄かに甘ったるい匂いが漂っている。
「……ラブホって、ほんとにこういう感じなんだ」
思わず小声でつぶやく。
入ったのは初めてだったけれど、なんとなくイメージ通りの空間に、妙に納得してしまった。
とにかくまずは、と彼女をベッドへ寝かせる。酔いつぶれた彼女の体は思った以上に重く、私までベッドに倒れ込みそうになりながらなんとか横にして、私はその脇へ腰を下ろした。
「……あー……腰と足が……。ほんと、明日休みでよかったわ……」
力が抜けて、ついベッドに体を預ける。途中で通り過ぎたシャワールームは、驚くほどプライバシーの欠片もない透明のガラス張りだった。おまけに浴槽の形はハート型。それもあってか、シャワーをあびる気も起きないくらい、もう体力は底をついていた。
「となると、寝るしかないわけだけど……」
あいにく、ベッドは大きなものが一つしかなかった。仕方なく彼女の隣に背中を向けて横になる。枕がYESを向けて置いてあったから裏返すも……YESのまま。 「どっちもかい」とたまらず遠くへ投げ飛ばした。
距離は近いけれど、同性である以上別に意識するようなことも警戒すべきことも何もない。
明日は必ずお金を払わせる。ついでにマッサージ代もだ。いや、下手したら温泉旅行でも連れていってもらってもいいかもしれない。
そんなふうに半分冗談交じりで考えながら、目を閉じた。
すぐ近くに誰かが眠っている。こんな状況は、高校の修学旅行以来だった。けれど、不思議と緊張することもなく、呼吸がすぐに深くなっていく。
――これはきっと疲れのせい。そう言い聞かせながら、私は静かにまぶたを閉じた。
甘い香りと微かな寝息に包まれながら、世界が静かに遠のいていくように意識がゆっくりと沈んでいく。
意識が残っていた最後に、「まったく……なんて夜よ」と小さく呟いて、私は深い眠りへと沈んでいった。
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