第2話 私は彼女の名前を知らない
たどり着いた職場の居酒屋に入ると、中では既に、いつものように店長がランチ営業の仕込みをしていた。
「おはようございまーす」
入り口ののれんをくぐりながら声をかけると、まな板の上で包丁を動かしていた逞しい腕が止まり、店主が振り返る。
「あら京子ちゃんおはようー! 今日も張り切って元気にいくわよー!」
「おー」
自然と拳を突き上げる。
……たぶん、こんなやり取りを毎日している職場は、全国探してもうちくらいだろう。でも、これがないと一日が始まった気がしない。
店長は見た目こそ筋骨隆々のマッチョマン。だけど、口調も仕草もどこか乙女めいていて、いわゆる"オネエ"だ。初めて面接に来たときはびっくりしたけれど、話してみれば驚くほど気配りができる人だってわかった。お客さんへの接し方も優しさに溢れている。
ちなみに数年前に彼氏と別れたけど、去年また彼氏ができたらしい。私とは比べものにならないほど人生経験が豊富で、そのギャップに思わず笑ってしまうくらい。
そんな非日常感のせいか、私はこの職場を居心地よく感じていた。
何よりここは働きやすい。店長はこの辺り一帯でいくつか物件を持っていて、ここは趣味で営業してるんだとか。そんなこともあってか給料はフリーターにしては悪くないし、まかないのおかげで食費も浮く。
余った食材を「廃棄するのもお金かかるし、持って帰っていいわよ」と渡してくれるのもありがたい。独り身の私にとっては、これ以上ない生活の支えだ。
「そういえば、この前考案してくれた新メニュー、昨日出したら好評だったわよ。ランチでも夜でも出てるわ」
「本当ですか? 喜んでもらえたならよかったです」
自分が考えた料理が、商品としてお客さんに届く。それを「美味しい」って食べてもらえる。小さな達成感だけど、そんなものでも十分やりがいになる。
「まぁ、私なんてこういう家事とか料理しか取り柄ないですけどね」
「なによー、取り柄があるってことは素敵なことよ」
なんだかんだで、こういうテンポの良いやり取りが心地いい。
そんなこの店の客層は、どこか普通じゃない。オネエの男性ばかりかと思えば女性客もちらほらいる。酔って絡んでくるようなセクハラ親父がほとんどいないのは助かる。もちろん、変わり者はいるけど……。
「よしっ!」
母との電話で沈みかけていた気持ちをここで切り替えようと一息ついた。
一人は気楽だし、誰かに恋をするという感情が自分の中に見当たらない。だからこそ、何も気にせずこうして働ける場所があること、それだけで十分だと思っている。いつまで続けられるかわからないけれど、そういうことはあまり考えたくない。
そうして私は調理場に入り、店長のランチの仕込み手伝いに取りかかった。
ランチ営業はお昼から十四時くらいまで。そこまで忙しいわけじゃなく、常連さんや近くの会社員がパラパラと訪れる程度だ。定食の注文が入るたび、私は素早く動き、店主と呼吸を合わせて皿を出す。
ピークを越えたらまかないを食べて、夜に備えて仕込みや掃除。それから休憩中に店長と他愛もない雑談。そんな時間の流れが、私は結構好きだ。
そして夕方。夜の営業が始まると、空気は一変する。
オーダーを通して、料理を運んで、ドリンクを作って。目まぐるしく走り回る時間がやってくる。
「京子ちゃん、これ三番席にお願ーい」
「はーい!」
「すみませーん、注文いいですかー?」
「はーい! 少々お待ちくださーい!」
呼ばれて、応えて、また呼ばれて。忙しいけど嫌じゃない。汗をかくぶん身体も軽くなるし、この歳になっても健康を維持できているのは、きっとこの仕事のおかげだろう。お腹まわりに余計な肉をつけないために、食事もなるべく気を使っているけど……動くことが一番だ。
そうやって、慌ただしいピークを乗り越えたのが二十一時過ぎ。食器を洗いながら、今日も一日頑張ったなぁとひそかに自分を労っていたところで――。
「いらっしゃーい!」
店主の野太くも甲高い声が響いた。お客さんか、と手を止め急いで手を洗う。タオルで指先を拭きながら入口のほうへ目を向ける。
そこにいたのは、やっぱり――――。
「桜井さーん、こんばんはー」
カウンターに腰かけ、軽く手を振ってきたのは――スーツ姿の見知った変な女性だった。
初めて会ったのは数年前、彼女が新社会人になって一か月ちょっとした頃だったはず。スーツ姿で肩を落とし、ひどく疲れた顔で「ビールください」って座ったのが最初。ちょうど手が空いていて、愚痴を聞いてあげたその日から、ことあるごとに愚痴をこぼしに来るようになった。
それからというもの、不思議と私の出勤日にばかり現れる。シフトを把握してるわけじゃないだろうけど、偶然にしてはできすぎだ。きっとシフトが似ているんだろう、と思うようにしている。
しかも、注文はいつも多めで、支払いも気前がいい。お店にとってはありがたい常連さんだ。接客が丁寧になるのも当然……いや、もちろんお客さん全員に丁寧に接してるけど。
「京子ちゃーん、こっちはいつも通りアタシ一人で回すから、お相手よろしくー!」
「はーい」
今日も注文多く貰ってきてね、と言わんばかりに店主に背中を押され、私は彼女の隣に座った。
……こうして隣に座るようになって、彼女は私の名前を名札から覚えたようだけれど、私は彼女の名前を知らない。どうしても知りたいというわけじゃないから、今でも彼女は名無しの変なお客さん。
そんなこんなでもう三年か、四年が経っている。
そして、そんな彼女がいずれ私にとって生涯のパートナーになるなんて、このときの私は想像だにしなかった。
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