第3話

指に受けたキスと、肋骨下あたりをなぞられた感触が生々しくて、その日はいつまで経っても眠れない。

もし、性の目覚めがあるとすれば、あの時いきなり目覚めさせられてしまった思いだ。


あの男が唇にキスをしたら、どれほどの甘美が待ち受けているのだろう。

舌を絡めたら、どうなるのだろう。

あの男の手が私の身体をまさぐったら……。


いけない……と自戒する。

あれは安易に自分が手に入れてはいけない快楽だと。

”それ”はおそらく麻薬と同じだ。

絶対に知らない方がいい。


だから私は、敢えてこのタイミングで「自分の純情」を再確認することにした。

課長だ。

課長を愛そう。

片思いに身をやつして、心の中で一途に推して推しまくる。

といっても私ができることと言えば、ひらすら仕事で尽くすくらいなものだけど。

より、丁寧な仕事を心掛け、先回りして補足資料なども付ける、

身体の片隅に小さく灯った欲望を消すために、私はより仕事に注力した。


「池内さん、この所すごい頑張ってるね」

「何かいいことあった?」


そんな私に、まるでご褒美みたいに吉田課長が声をかけてくれた。

社内食堂の、私の前の席に課長が座る。


「いえ、もう三十路に入ったので、いままで以上に仕事に頑張ろうと」


「えっ?池内さん、誕生日いつ?」


「あ、先月のことです。つい自分にご褒美ってマンション買っちゃいました」


「ええええ?結婚とか?あ、これセクハラだよね」


「いえ、買ったのは1LDKのおひとり様マンションです。一生ひとりで生きていく覚悟っていうか」


「なんで?池内さん、綺麗なのに」


綺麗??いきなり聞きなれない言葉を、それも好きな人から言われて、顔が引き攣る。


「ご、ご、ご、ご、ご冗談を」


その時、自分がどんな表情をしていたのかも分からない。

けれど固まってしまった私を見て、自分の発言にドン引きしたと思ったのか、課長が思い切り気まずそうにする。


「ごめん、これもとんだセクハラだね。こんなことだから余計なこと言わないよう努めていたのに」


そこから全く話が膨らまない。

押し黙ってしまった私にどう接していいか分からないようで、課長もそこから無口になった。

私が良い返しのひとつでもすれば違ったのだろうけど、課長も言葉の選び方を考えているのだろう。

いたたまれない沈黙が続く。


「ごめんね、変なこと言っちゃて」

「機会があれば、お祝いさせて」


「あ、ありがとうございます」


早々に食事を済ませてそこから立ち去ったものの、とてつもない後悔が自分を襲う。


め、免疫がなさすぎる!

「機会があれば」って何?

どういうこと?

無理。無理、無理。


でも「機会」って言葉をたぐりよせれば、ひょっとして次に繋げられるの?

教えて、誰か!


頭に浮かんだ人間はひとりしかいなかった。


===


「あのう。折いって、ご相談があるのですが」


たまたますれ違ったタイミングで私は高桑くんに話しかけた。


「おっ、試してみたくなった?」


「い、いえ!全然!微塵も!ナノレベルで!」


「なんだそれ、ひどいなぁ」


「奢るので、相談に乗って欲しくて」


「どっちかっていうと、乗りたいのは、から……」


やめて!と口を塞ぐ。


「社内で変なこと言わないでください」


「社内で恋愛相談も似たようなもんだろ」


「全然違います!」


「うーん。じゃあ、話を聞く周りに最後に首筋にキスさせてくれるなら」

「乗るよ、相談に」

「いいアドバイスも、できると思う」


「く、首?」


「そう、首。首が嫌なら、そうだな。耳の後ろ辺りでもいい」


高桑くんが、私の耳の後ろあたりを指さした。


ーーー来る!


てっきりまた、なぞられるかと目を瞑ったけれど、高桑くんは指を止めたまま何もしなかった。


「いいね。感度良さそう。どんな声で啼くんだろうな、あんた」


「そ、そ、そ、相談はやっぱりいいです」


「乗るよ、相談。なんもしないから」


「へっ?」


「話聞かせてよ。俄然、興味が湧いて来た」


少し悩んだけど、彼に話せば、何か新しい道が開けそうな気がした。


「電話番号教えて」


高桑くんが胸元からペンを出して自分の手の甲に書く準備をする。


「090ーーー」

導かれるように、気付けば私は彼に番号を教えていた。


手に書き終えた後。

「これで合ってる?」


と私の目の前に、番号が書かれた左手を二の腕ごとかざす。


こういうのも手口なのだろう。

その手はまるで、彼が私を刻み込んだみたいに思えた。

免疫のない私には刺激が強すぎる。


「あとで連絡する」


そう言って笑顔で立ち去る彼を見つめながら、

相談などすべきではないのかもと後悔したけれど、一方では期待する気持ちもまた胸に宿った。


終業後、廊下で彼にすれ違った時、彼は番号の残る左手を右手で指差しながら私へ「電話する」という仕草をとった。

まだ、自分の番号が手に残っていることに心が騒ぐ。


二日後の夜、私たちはまた、以前会った居酒屋で会った。


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