第8話 神様、僕を愛してくれますか
降りしきる雪が、音を食べていた。
踏みしめたはずの雪の感触さえ、世界に吸い込まれて消えていく。
白い息は空中で砕け、すぐに闇へ溶けた。
山の奥にひっそりと立つ祠は、一年前と同じ姿でそこにあった。
けれど――そこへ向かう雪杜の歩幅だけが、もう“死を求めたあの夜の少年”ではなかった。
一年。
生き延びてしまった一年が、足を重く引きずっている。
「……御珠……もう、疲れたよ……」
声に出した瞬間、胸の奥がかすかに軋んだ。
呟きは白い霧となって空へ散り、二度と戻らない。
指の中の勾玉は、すっかり冷えていた。
冬の石の冷たさではない。
もっと深い、地の底のような温度のない冷たさ。
かつて御珠の“息”を宿していたはずの石――
学校の帰り道、光を宿し、声を届けてくれた勾玉はもう跡形もなく沈黙している。
手のひらで転がすたびに、そこにあったはずの温もりだけが幻のように疼いた。
御珠がいなくなってからの世界は、静かに、しかし確実に壊れていった。
笑顔は焦点を失い、
優しさは理由をなくし、
愛情は重力を失って憎しみへ転がり落ちていく。
あの咲良でさえ、もう雪杜の目をまともに見られなかった。
胸を押さえ、息を詰まらせ、痛みに顔を歪めていた。
あの日の咲良の姿が脳裏に浮かぶ。
教室の空気がわずかにひきつれた、あの瞬間。
泣きながら、咲良は声にならない声を絞り出していた。
『……雪杜くん……好きになって……ごめんね……』
あの瞬間の咲良の声だけが、今も胸に張り付いて離れない。
ごめんね、なんて。
謝るのは僕の方なのに。
僕が生きているだけで、彼女をあんな顔にしてしまったのに。
「……咲良までも……。
御珠がいないと、僕……もう……」
言葉が喉でちぎれた瞬間――
ぱきり。
掌の勾玉が、氷を割るような鋭い音を立てた。
一瞬、息が止まった。
割れた勾玉の隙間から、光が零れ出した。
雪明かりに反射して、祠の闇がじわりと照らし返す。
世界が息を飲んだ。
雪明かりの中で、割れた勾玉から溢れた光が、静かな波のように祠の闇へと満ちていった。
光は音もなく広がり、積もった雪の影をひとつずつ、柔らかく押しのけていく。
世界がその光に押し返されているように見えた。
「御珠!」
叫んだ声は、夜の底へ落ちていき、そのまま深淵で反響した。
風が止まり、雪の粒は空中で静止する。
時間だけが、祠の内側でゆっくりと逆巻いていた。
やがて光の中心に、少女の影がひとつ――
迷いも重さもなく、ただそこへ降り立つように形を取り始める。
「……会いたかった!!」
雪杜の声に応えるように、藍の髪がふわりと揺れた。
灯火の明滅に似た揺らぎ。
人の温度と、神の気配がぎりぎりの境目で混ざっている。
御珠はゆっくりと瞼を開いた。
白い息がひとつ、祠の冷たい空気を震わせる。
「そなた……弱くなったの……妾も、か……」
声は遠い。
けれど、その遠さですらあたたかかった。
雪杜の名を覚えている者だけが持つ、柔らかな熱だった。
雪杜は駆け寄ろうとして――足が止まった。
御珠の身体は光の粒子でできていた。
触れたら崩れるほど儚い。
けれど、御珠の眼差しだけは粒子の体とは不釣り合いなほど強かった。
御珠はそのまま、胸元へ下ろした視線でそっと告げる。
「勾玉を通して……ずっと見ておった。
この世界はもう、元には戻らぬ。
妾が干渉せぬ限り、な」
「御珠……何を言って……?」
問う声に、御珠の瞳が静かに揺れた。
翠の光が、祠の闇で深い悲しみを孕む。
雪杜は一歩踏み出す。
その瞬間、祠の木枠がきしりと鳴り、風の音さえ遠くへ押し出されていった。
御珠は、雪がはらりと落ちるような弱い揺れの中で言う。
「妾がそなたの呪いを抱え……存在すべてを代償とすれば、この世界はやり直せる」
その声音には祈りも命令もなかった。
ただひとつの、揺るぎない決意だけがあった。
「存在すべてを代償って……それじゃ、御珠が――!」
声が震えた瞬間、祠の空気がひきつれた。
雪明かりすら色を変えるほどに。
「妾が消える。
そなたの記憶も――失われる。
けれど、世界はもう一度やり直せる。
呪いに触れぬ、静かな世界を。
そなたが……笑って、生きられるように」
あまりに静かで、あまりに優しい声音だった。
その優しさが刃のように胸へ刺さって、雪杜は息を吸うことさえ忘れた。
肺に入ったはずの冷気は、痛みになる前に凍りつく。
「嫌だよ……御珠、行かないで!
僕、もう一人でなんて生きられない……
あの日みたいに……また、消えてしまいそうだ……!」
叫びは祠に吸い込まれるように消え、その残響だけが雪の闇へ薄くほどけていった。
御珠はその声を受け止めるように、ほんのわずか目を細めた。
微笑を作ろうとしたのに、その笑顔は――泣きだしそうに見えた。
「これしか方法がないのじゃ。
そなたが生きるためには……妾がいなくなるほかない」
「なんでそこまで!
僕が死ねば――
世界は、もう壊れないじゃないか!」
吐き捨てるような叫びだった。
怒りでもなく、誰かへの憎しみでもない。
ただ自分を責める痛みだけが、喉の奥から噴き上がった。
御珠は首を横に振った。
その動きは、空中でほどける雪よりも弱かった。
見ているだけで胸が耐えられなくなるほどの儚さ。
「それではダメなのじゃ」
声そのものは静かだった。
けれど、その静けさの奥で――確かに揺れていた。
神が感情に触れた瞬間、祠の木枠がわずかに軋んだ。
そして――
「……妾は、神でありながら……
そなたを愛してしまったのじゃ」
落ちた言葉が、光の粒をひとつこぼした。
御珠は瞼を閉じ、浅い息をひとつ落とす。
その呼吸はあまりにも弱く、人間の少女のそれに近かった。
雪杜は思わず息を呑んだ。
触れれば壊れてしまう。
声をかけるだけで散ってしまう。
そんな姿の御珠を、一度も見たことがなかった。
“神”であるはずの彼女が、いまは人よりも儚かった。
「そなたを選んでしまったのじゃ。
生きて欲しいと……願ってしまったのじゃ。
妾のために……生きてはくれぬか」
最後の一語が震えたのは、冷気のせいではない。
御珠自身の心が揺れていた。
雪杜の膝が雪に沈んだ。
頬へ当たる雪の粒の痛みが、涙の熱と混ざって消えていく。
「嫌だ。
御珠がいない世界で生きたって、意味がない。
僕のことが好きなら……僕のために死なないで」
御珠の瞳が揺れた。
その震えは神のものではなく、紛れもなく――人の熱だった。
「わがままを言うでない……妾も、そなたと共に歩みたい。
しかしそれはできんのじゃ。
神と人とでは、生きる時間が違いすぎる。
やがてそなたは先に逝く。
残された妾はどうすればよい……?
悲しみに暮れたまま悠久の時を過ごせと申すのか?」
雪杜はハッとした。
御珠との未来なんて、一度も考えたことがなかった。
いつまでもそばにいてくれると、無意識に思い込んでいた。
その思い上がりが、胸の奥を鋭く刺した。
「そんなこと言われたら……選べないよ……
ずるいよ、御珠……」
御珠は膝を折り、雪杜の目線に降りてきた。
光の粒が雪と混ざり合い、彼女の姿を淡く包む。
「妾とて……気持ちは同じじゃ。
そなたの隣で笑っていたい……。
けれどそれは、叶わぬ祈り。
じゃが――
妾は長き時を見てきた。
滅びも、祈りも、幾度となく流れていった。
けれど、そなたと過ごした日々だけは……
終わることが怖いと、初めて思ったのじゃ」
光がふっと揺れた。
御珠自身が、その感情の重みに耐えきれないように。
「――だから、終わりを見届けようとも思う。
それが、そなたを愛してしまった妾の罰であり……
「御珠……それって……」
雪杜は息を呑んだ。
二人の視線が重なった瞬間、雪の音が――完全に途切れた。
空気が――凍りついた。
御珠の気配がひとつ揺れた瞬間、まわりの空気が深く沈み、世界の輪郭がきしんだ。
その沈黙が、二人の立つ雪ごとすべてを押しつぶしていく。
雪は落下を忘れ、
光は瞬きをやめ、
風は存在そのものを凍結された。
残されたのは二人だけ。
時間に見放された、小さな世界。
御珠の瞳に映る雪杜。
雪杜の瞳に映る御珠。
それ以外のすべてが、まるで封印された画面のように沈黙していた。
祠の奥の光がひと筋、静止した雪の粒を照らす。
その淡い煌めきが、世界をひと呼吸分だけ揺らす。
雪杜は――祈りのような声で呟いた。
「――神様、僕を愛してくれますか」
世界が、完全に止まる。
そして――
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