第3話 訪れる日常

朝。


カーテンの隙間から、白い光がこぼれる。

雪杜は目を覚まし、胸のあたりを押さえた。

昨日の帰りに御珠からもらった勾玉が、肌の下でわずかに温かい。

鼓動の音といっしょに、かすかな波のような震えがある。


「……なんか、息がしやすい」


そう呟いた声が、畳の上でやわらかく溶けた。

祖父の足音が廊下を渡ってくる。


「よく眠れたか」

「うん、久しぶりに」

「顔色がいいな。ちゃんと飯が食えそうな顔だ」


その言葉が、朝日よりも温かかった。


榊の枝がふるりと揺れ、光の粒がこぼれる。

御珠が現れ、いつものように胸を張る。


「妾の息が効いておるようじゃ」


「え?神様の息って、感染するタイプ?」


「失敬な。妾のは神性ゆえの空気清浄効果じゃ」


「ふは、神は空気清浄機だった」


御珠がむっと頬を膨らませる。

けれどその表情は、いつもより柔らかかった。


―――


登校。


夜の湿り気が残る道に、朝露が光っている。

通学路の子どもたちが「おはよう」と手を振る。

その笑顔が、今日はちゃんと「挨拶の笑顔」に見えた。


御珠が横で歩きながら言う。


「ぬしの“音”が静まったのじゃ。だから皆、怖がらぬ」


「音?」


「人の心は波じゃ。ぬしの波が荒れると、周りも揺れる。

 今は穏やか。春の川みたいじゃ」


「……なんかポエムみたいだね」


「詩とは本来、神の言葉じゃ」


御珠は少し誇らしげだった。


―――


教室。


石田が黒板に数字を並べ、算数の授業をしている。


「はい、三角形の内角の和は何度だ?」


御珠は転校二日目にして、すっかり腫れ物扱いになっていた。

それでも今日は黙ってノートを取っている。

鉛筆の音、ページをめくる音、窓の外の風。

どれもが、昨日より澄んで聞こえた。


昼の鐘が鳴る。

配膳係が立ち上がり、給食のワゴンを押してくる。

今日のメニューは、ごはん・肉じゃが・わかめスープ・みかんゼリー。

湯気がふわりと立ちのぼり、教室の空気を包んだ。


御珠が箸を見つめて首をかしげる。


「じゃがいもの“じゃが”とは何じゃろうのう?」


「ジャガタライモっていうジャカルタから入って来た芋が由来らしいよ(By Wikipedia)」


「ほう……現代社会すごいのう」


「いや普通だから」


隣の席の子が笑う。


「御珠さん、お婆ちゃんみたい」


皆が腫物扱いする中、度胸のある子だと思った。


「ふん、妾は悠久の時を生きる神じゃからな。お婆ちゃんと呼ばれるのも吝かではない」


以外にも御珠は普通に受け答えをする。

その瞬間、教室の空気が弛緩していくのが分かった。

笑い声が広がる。

その音は、焦げついた昨日の笑いとは違っていた。

柔らかく、ちゃんと笑い合う音だった。


雪杜はその中で、静かに息を吐く。

“普通”の時間が、こんなにも温かいなんて忘れていた。


―――


放課後。


昇降口の窓から射す夕陽が、床を金色に染める。

靴を履き替える雪杜の手の中で、勾玉がほのかに光った。


御珠がその光を見て微笑む。


「妾の息が、ぬしの中で生きておる。……よいことじゃ」


「……ありがとう、御珠」


その名を呼ぶと、御珠の耳が赤くなった。


「ぬ、ぬし、唐突に名を呼ぶでないっ。心臓に悪いのじゃ……」


「神様でも心臓あるんだ?」


「妾のは“理の鼓動”じゃ!……ま、まぁ、似たようなものじゃが。

 ……いまのじゃがはじゃがいもとは関係ないぞ?」


二人の笑いが重なり、校庭の風に溶けていく。

風鈴のような放課後の音。

それが、彼らの一日の締めくくりだった。


―――


夜。


部屋の明かりを落とすと、勾玉が小さく呼吸するように光った。

雪杜はその明滅に合わせて、深く息をつく。


布団の傍らから、御珠の声が聞こえる。


「妾の息が届く限り、ぬしは安らかに眠れる。……今夜も、生きよ」


雪杜は目を閉じ、静かに頷いた。


窓の外で風が鳴る。

それはもう、冷たくない音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る