神殿で「役立たず」と虐げられていた聖子の力は、実はあらゆる奇跡を紡ぐ伝説の至宝。一途な狼の王様に攫われ、運命の番としてひたすら溺愛される

藤宮かすみ

第1話 役立たずの聖子

 白亜の神殿は、祈りと光に満ちている。人々はそう信じて疑わない。

 けれど、その最も清浄であるはずの場所で、ユンは息を潜めるように生きていた。


 ユンは「聖子」だ。神から聖なる力を授かった、特別な存在。

 しかし、その称号は彼にとって鉛のように重い枷でしかなかった。

 彼の持つ聖なる力は、ただ一つ。「魔力を込めた特別な糸を紡ぐ」こと。それだけだった。


「また糸なんぞを紡いでいるのか、役立たずめ」


 背後から投げつけられたのは、いつもの嘲りの言葉。

 振り返らずとも、それが誰の声なのかは分かっている。同じ聖子である彼らは、奇跡の治癒術で病人を救い、聖なる光で穢れを浄化する。

 民衆から喝采を浴びる彼らにとって、地味な糸をひたすら紡ぐことしかできないユンは、格好の的だった。


「聖子の面汚しだ」

「なぜお前のような者が選ばれたのか」


 投げかけられる言葉の礫は、ユンの心を少しずつ削っていく。

 誰もいない礼拝堂の隅で、ユンは指先から細く、銀色にきらめく糸を引き出す。魔力を込めれば込めるほど、糸はしなやかさと輝きを増した。

 だが、その輝きが誰かの役に立ったことは一度もなかった。ただ美しいだけの、無価値な糸。

 それはまるで、自分自身を映しているかのようだった。


 食事はいつも独り。与えられる部屋は、北向きの陽の当たらない寒い小部屋。

 聖子としての教育もまともに受けさせてもらえず、ただ存在を許されているだけの毎日。

 長老をはじめとした神官たちも、見て見ぬふりだった。いや、彼らこそがユンを「役立たず」と断じ、他の聖子たちの優越感を煽っているのかもしれない。


 ある夜、ユンの胸に堪えきれないほどの息苦しさが込み上げた。このままでは、心が死んでしまう。

 蝋燭の消えた真っ暗な自室で、ユンは固く拳を握りしめた。生まれてこの方、一度も神殿から出たことはない。外の世界がどうなっているのかも知らなかった。


 ――逃げ出したい。


 それは、生まれて初めて抱いた、強い衝動だった。


 警備の神官が巡回する合間を縫って、音を立てないように回廊を進む。心臓が早鐘のように鳴り、見つかるかもしれないという恐怖で足がすくむ。

 だが、それ以上に、この場所から解放されたいという渇望が彼を突き動かした。


 分厚い裏門の扉に、ほんのわずかな隙間があった。きっと、誰かが見回りを怠ったのだろう。

 それは神が与えてくれた、唯一の好機に思えた。

 体を滑り込ませ、振り返ることなく走り出した。冷たい夜気が頬を打ち、初めて吸う神殿の外の空気に、思わず咳き込んだ。


 背後から追っ手の声は聞こえない。ユンは夢中で走り続けた。神殿を取り囲むように広がる深い森の中へ。

 月の光だけが、かろうじて足元を照らしていた。

 どれくらい走っただろうか。息が切れ、足がもつれて地面に倒れ込んだ時、彼の耳に獣の苦しげな呻き声が届いた。


 恐る恐る音のする方へ近づくと、月明かりの下に、信じられないほど大きな一匹の狼が倒れていた。

 銀色に輝く毛並みは血で赤黒く汚れ、脇腹には槍で突かれたような深い傷がある。荒い息を繰り返し、その金色の瞳は苦痛に揺れていた。


 ユンは息を呑んだ。巨大な獣への恐怖よりも、その瀕死の姿への憐れみが勝っていた。

 まるで、神殿で孤独に耐える自分自身の姿を重ねて見たかのように。


「……可哀想に」


 無意識だった。ユンの指先から、すうっと銀色の糸が紡ぎ出される。

 それは、今までで一番強く、そして優しい光を放っていた。

 彼は震える手でその糸を操り、狼の深い傷口へと近づける。恐怖心はもうなかった。ただ、この美しい生き物を助けたい。その一心だった。


 糸が傷に触れると、ひとりでに動き出し、まるで熟練の医者が縫合するかのように裂けた皮膚と肉を繋ぎ合わせていく。

 役立たずだと言われ続けた自分の力が、今、目の前の命を救おうとしている。

 ユンは、祈るようにその光景を見つめていた。

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