鬱々鬱々 『第壱章 アニメ公開中』

akagami.H

第壱章 メリーゴーランド第一節 朝の光、夜の影

第一節 朝の光、夜の影

      

日常に差し込む不安の兆し。


またあの夢が、はじまった。


あの日、何かが壊れた。

誰かが、誰かを待ってるようで。


私はいつも、

その場所に立っている。


手の感触が、まだ残っているのに、

何を掴んでいたのかだけ、思い出せない。


これで、大丈夫なのか――

自分に、何度も問いかけている。


次は、大丈夫でありますように――

そう願っていたら、朝が来た。


朝の光がカーテンの隙間から差し込んでくる。

 目を開けた瞬間、天井の模様がなぜか揺れて見えて、思わずまばたきをした。夢からまだ抜けきれていないのかもしれない。


 リビングに行くと、佐々木尊、父は新聞を広げてコーヒーをすすり、母は慌ただしく朝食の準備をしていた。 どこにでもある、平凡な家族の朝。


 けれども、このマンションに引っ越してから、私はよく眠れない。夜中に何度も目が覚めてしまうし、朝起きると胸が重い。

 

「新しい環境に慣れてないだけよ」

 佐々木望、母はそう言って笑ったけれど、あの笑い方はどこか無理をしているように見えた。


 食器棚のガラスに小さなヒビが入っているのに気づいたのは、その日の朝だった。

 地震も揺れもなかったはずなのに。

 誰も気づいていないふりをして、朝食は静かに進んでいく。


 食後、制服のリボンを整えて鏡を覗く。

映っているのは、誰もが振り返るような美少女——佐々木咲。


 高校一年にして勉強も運動もそつなくこなし、すでに学年一の秀才として名を知られていた。


 けれども、鏡に映る自分の笑みが、時折つくりものめいて見えることを、咲だけは知っていた。


 転校してから、もう一か月。

 最初は注目の視線に戸惑ったけれど、今ではすっかり馴染んだ。


 校門をくぐると、夏の光が白く照り返し、蝉の声が校庭いっぱいに鳴り響いていた。

焼けたアスファルトの匂い、風に混じる草の青さ。


そんな中で


「おはよう、佐々木さん!」

「今日も髪きれいだね」


と声をかけてくるクラスメイトに、咲は穏やかに微笑んで返す。

誰にでも優しく、誰からも好かれる存在——それが咲だった。


 教室の席に着くと、隣の机に腰を下ろした親友が軽く肩をつつく。

 「咲おはよう、今日の小テストまた満点でしょ?」

 声の主は新里茜。咲の転校してからの初めての友人で、明るく人懐っこい性格だ。

 「どうだろうね。茜だって勉強してたじゃない」

 咲が答えると、茜は「いやいや、あんたと一緒にされたら困るよ」と笑う。


 周囲の男子はちらりと咲を盗み見ては囁き合い、女子は咲のノートを写させてもらおうと机に集まる。

 教室の中心にいるのに、本人はあくまで自然体。

 それが、佐々木咲という少女の「表の顔」だった。


 放課後、茜と二人で下校する。

 

 駅前のベンチに腰掛けてジュースを飲みながら、茜が言った。


 「咲ってさ、ほんと完璧だよね。顔も頭もいいし、性格までいいなんてずるい」

 「……そうかな」


 咲は笑う。けれどもその笑顔は、ほんのわずかに影を落としていた。


茜と駅前で別れたあと、私はひとりでマンションへ向かった。

 夕方の空はどこか霞んでいて 少し肌寒かった。


 マンションの敷地に入った瞬間、妙な視線を感じた。

 ゴミ捨て場の前に、作業着姿の中年男が立っていた。四十代くらいだろうか。袋の口を破り、ペットボトルや雑誌を無造作にあさっている。

 

 その手が止まり、ゆっくりと顔を上げた。

無言のまま、じっとこちらを見つめてくる。


 思わず息をのむ。

 何も言われていないのに、全身が緊張した。

 私は視線を逸らし、小走りでエントランスに向かう。

 足音が響くたび、背中に突き刺さる気配が離れない。


 エレベーターの扉が閉まる瞬間、もう一度ゴミ捨て場の方を見た。

 男はまだこちらを見ていた。笑っても怒ってもいない、ただ無表情に。


 玄関を開けると、リビングから味噌汁の匂いが漂ってきた。

 母はすでに台所に立っていて、振り返ると少し疲れた笑顔を見せた。

 「おかえり、咲。……学校はどう?もう慣れた?」

 「うん。まあ、それなりに」

 「友達もできたのね」

 母の声は柔らかいはずなのに、どこか探るような響きが混じっていた。

 私は曖昧に笑って鞄を置き、制服のリボンを軽く直した。

 母はすぐに話を続ける。


 「夏休みはどうするの?……あまり外で遊び回るより、できるだけ家にいてくれた方がいいと思うの」

 唐突な言葉に、思わず首をかしげる。

 

「……なんで?」


 母は視線をそらし、洗った皿を布巾で拭きながら答えた。


 「この前も言ったけど……ゴミ捨て場の近くで、変なおじさんがいたの。四十代くらいかしら。ずっとじっとして、誰かを見てるみたいで……」

 その声は、どこか怯えて震えていた。

 私は無意識に背筋を正した。

 

「……それ、話してた?」


 母は笑おうとしたが、すぐに引きつった。

 「ただの住人かもしれない。でも……あの目つきが忘れられないの。だから、お願い。外に出歩かないで。家にいて」


 そのとき、玄関の鍵が回る音がした。

 「ただいま」

 落ち着いた声とともに父が入ってくる。スーツ姿に疲れがにじんでいた。


母は振り返り、小さな声で「おかえり」と答える。

 私は「おかえりなさい」と言いながら、父のコートを受け取った。

 「どうだ、学校は。……そろそろ慣れたか?」

 新聞をテーブルに置きながら、父は穏やかな調子で尋ねる。

 「うん、まあ……」

 言葉を濁したが、父はそれ以上深く聞いてこなかった。

 代わりに、食卓に腰を下ろすと、ふと明るい声を出した。

 「なあ、せっかく新しい土地に越してきたんだ。どこか旅行にでも行こうか。夏休みも近いしな」

 母は一瞬だけ手を止めた。笑顔を作ろうとしたが、その表情は強ばっていた。


 「……そうね。でも、遠出はやめた方がいいんじゃないかしら。咲も……」

 「もう慣れて大丈夫だろう。息抜きくらい必要だ」

 父の口調は柔らかかったが、どこか噛み合わないやりとりに、胸がざらついた。 

 そして、昼間の光景が頭に浮かぶ。

 ゴミ捨て場でこちらを無言で見ていた四十代くらいの男。

 作業着姿で、袋を荒らす手を止めて、ただじっと私を見ていた。

 何も言われなかったのに、体が凍りついた。


 ——あの人は、このマンションに関わりのある誰かなのだろうか。


 嫌な想像が頭を離れず、布団に入って目を瞑っても、あの無表情な顔が焼きついて離れない。

 眠ろうとするほどに心臓の鼓動が速くなり、息が浅くなる。


 そのときだった。

 夜の静けさを引き裂くような叫び声が、遠くから響いてきた。

「……っ!」

 思わず布団を握りしめる。

 直後に——ドンッ、と重い音。まるで人が地面に叩きつけられたような衝撃音だった。


 背筋が震え、体が動かない。

 恐る恐る目を向けると、カーテンに黒い影が映っている。

 ——人の形に見えた。


 私は震える指でカーテンを少し開けた。

 そこには何もない。街灯に照らされる木の枝が、夜風に揺れているだけ。

 安堵と同時に、窓を閉め、鍵を回す。


 その瞬間。

 

何度も。


何度も。


何度も。


叫び声が響いた。


 途切れた悲鳴と、地面に叩きつけられる音。

 今度ははっきりと、自分のすぐ外から聞こえた。


 私は布団を頭までかぶり、声を殺して震えた。

 瞼を閉じても、あの男の視線と、叫び声が消えなかった。


その闇の奥に——赤い光が差し込んだ。

 女の子が一人のメリーゴーランド。

 真紅の電飾がぎらぎらと瞬き、木馬たちが歪んだ笑みを浮かべるように回っている。

 オルゴールの旋律は掠れ、遠くで誰かが嗤っているように聞こえた。


朝の光で目を覚ましたとき、昨夜の記憶がごちゃごちゃに絡まっていた。

 カーテンに映った影、落ちていくような叫び声、重い衝撃音。

 あれは——夢だったのだろうか。


洗面所で顔を洗っても、まだ胸の奥がざわついている。

 リビングに入ると、母は台所で、弁当を詰めていて、父は新聞を広げ、パンをかじりながらスマホを眺めていた。

 どこにでもある朝の食卓。

 けれどもテレビから流れるアナウンサーの声に、手が止まった。


 ——《今朝早く、都内のマンションで住人の女性が転落死しました。

 現場は〇〇区内の住宅街にある十数階建ての建物で、警視庁が詳しい状況を調べています。

 近隣住民によりますと、午前5時ごろ「大きな音がした」と通報があり、駆けつけた警察官が敷地内で倒れている女性を発見しました。

 、搬送先の病院で死亡が確認されています。》


 画面には、私たちが暮らす建物の外観と、ブルーシートで覆われた現場が映っている。

 

「……このマンション?」

 父が低くつぶやいた。


 母は箸を握ったまま表情を硬くする。

 母は顔を引きつらせて私を見る。


 私は声を出せなかった。


 昨夜の“あの出来事”と、ニュースで報じられる時間が食い違っている。

 でも確かに、叫びも衝撃音も聞こえた。

 ——夢じゃなかった?

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