第四話 ショートケーキの箱
その男は、少しうつむき加減で屋台にやってきた。
スーツにネクタイ、身なりは整っているのに、どこかしら投げやりな空気をまとっている。
指には、まだ外していない結婚指輪。
「“思い出の味”を、お作りしてます」
「……思い出、か。そういうの、今さら思い出してもなぁ」
「思い出すだけで、救われることもあるかもしれませんよ」
静かに座った男は、しばらく黙っていた。
けれど、ぽつりと話し始める。
「……結婚して、十年。
今、嫁と……離婚寸前なんです。
もう、会話もなくて。すれ違いばかり。
だけど……今日、ふと思い出したんですよ。
初めてのデートの日のことを」
言葉に詰まりながらも、男は続けた。
「彼女、甘いもの好きでね。
街の小さなケーキ屋に入って、彼女が頼んだのが……いちごのショートケーキ。
“生クリームがふわふわなのが好き”って、うれしそうに笑ってたんですよ。
……それ、忘れてたなって。ずっと」
理世は小さくうなずいた。
「お持ち帰りですか?」
「……はい。もし渡せるなら、ですけど」
彼女は静かに作業を始めた。
手元には、小さなホールケーキ。
ふわふわの生クリームに、艶やかないちごが並ぶ。
箱に入れ、リボンを結ぶと、そっと手渡した。
「どうか、届けてください。あの日のあなたの、気持ちも一緒に」
男は深く頭を下げると、ケーキを抱えて去っていった。
◇
マンションの前。
インターホンを押す指が、かすかに震える。
「……なに?」
扉の奥から聞こえた声。
しばらくの沈黙のあと、男は小さな箱を差し出した。
「これ……覚えてる? 最初に一緒に食べたケーキ、だと思う」
箱を受け取る彼女の手も、少しだけ震えていた。
「……まだ、好きなの? 甘いの」
「……うん。たぶん、好き。忘れてたけど」
ドアの隙間から、かすかに香る、甘い匂い。
それは、過去じゃなく、“今”に届いていた。
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