第四話 ショートケーキの箱

その男は、少しうつむき加減で屋台にやってきた。

スーツにネクタイ、身なりは整っているのに、どこかしら投げやりな空気をまとっている。

指には、まだ外していない結婚指輪。


「“思い出の味”を、お作りしてます」


理世りせの声に、男は少しだけ驚いた顔をした。


「……思い出、か。そういうの、今さら思い出してもなぁ」


「思い出すだけで、救われることもあるかもしれませんよ」


静かに座った男は、しばらく黙っていた。

けれど、ぽつりと話し始める。


「……結婚して、十年。

今、嫁と……離婚寸前なんです。

もう、会話もなくて。すれ違いばかり。

だけど……今日、ふと思い出したんですよ。

初めてのデートの日のことを」


言葉に詰まりながらも、男は続けた。


「彼女、甘いもの好きでね。

街の小さなケーキ屋に入って、彼女が頼んだのが……いちごのショートケーキ。

“生クリームがふわふわなのが好き”って、うれしそうに笑ってたんですよ。

……それ、忘れてたなって。ずっと」


理世は小さくうなずいた。


「お持ち帰りですか?」


「……はい。もし渡せるなら、ですけど」


彼女は静かに作業を始めた。

手元には、小さなホールケーキ。

ふわふわの生クリームに、艶やかないちごが並ぶ。


箱に入れ、リボンを結ぶと、そっと手渡した。


「どうか、届けてください。あの日のあなたの、気持ちも一緒に」


男は深く頭を下げると、ケーキを抱えて去っていった。



マンションの前。

インターホンを押す指が、かすかに震える。


「……なに?」


扉の奥から聞こえた声。

しばらくの沈黙のあと、男は小さな箱を差し出した。


「これ……覚えてる? 最初に一緒に食べたケーキ、だと思う」


箱を受け取る彼女の手も、少しだけ震えていた。


「……まだ、好きなの? 甘いの」


「……うん。たぶん、好き。忘れてたけど」


ドアの隙間から、かすかに香る、甘い匂い。

それは、過去じゃなく、“今”に届いていた。

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