幸せな雛芥子の夢
水無月スミレ
1話
「えっと、すみません。あなた、誰ですか?」
恋人から告げられたその言葉を聞いたとき、俺の中の時間が一瞬止まってしまったかのように感じられた。自分の顔が青ざめていくのが分かる。あのとき一緒にいたのに……守れなかっただなんて俺は彼氏失格だ。
――昨日の夜、俺こと江口斗眞は演劇サークルの打ち上げに同じサークル仲間で恋人でもある白川雛子と共に来ていた。先日公演した劇は練習の甲斐あって大成功を収めた。そのせいか今日は皆、大盛り上がりでいつもより多く酒を飲む者や高い料理を注文している者もいた。
「名残惜しいけどそろそろお開きにしようか」
ちらりと壁に掛かっている時計を見ると、既に日を跨いでいた。
外に出ると空は墨で塗りつぶしたかのような黒さで重々しく厚い雲に覆われていた。アスファルトは濡れていて所々に水溜まりが出来ている。そういえば今日は夜に降るって天気予報のお姉さんが言っていたな。帰る前に止んでくれて助かった。
「女性陣は危ないので、できる限り誰かと一緒に帰るようにして下さい。それではお疲れ様でした」
お疲れ様でしたと皆が挨拶をした。周りをざっと見渡すとまだまだ飲み足りない者、真っ赤な顔で足取りもおぼつかないような者、その人を介抱する者であふれかえっていた。それぞれがタクシーや駅で帰ったり、近くのカラオケを探したりなど解散後の行動は様々だった。
「どうする? 俺らもカラオケ行く?」
「帰る」
雛子に聞くと返事はたった一言だけ。一見冷たく感じるけれど、それだけ俺に慣れてきて素を見せてくれるようになったのだと思うと嬉しくなる。
「じゃあ一緒に帰ろうか」
歩き始めてしばらく経った頃、交差点で信号が変わるのを待っていると、白い軽自動車が闇の中からこちらに向かってくるのが見えた。初めは何とも思わなかったが、よく見ると三車線の右側と左側をジグザグに行ったり来たりしながら進んでいる。
「危ない!」
青になった信号を見て車道を渡っていた雛子に声を掛けたが時すでに遅し。車は目の前まで来ていた。
キキーッ、ガンッ!
彼女の体はボンネットの上へ乗り上げた。
「雛子!雛子っ……!」
呼びかけても返事が無い。死んでしまった……のか? いや、まだ息はある。だけどもし、彼女がこのまま死んでしまったら……。
「大丈夫か、嬢ちゃん! 今救急車を呼ぶからなっ!」
運転手が降りてきて大声で叫んでいる。そうだ、救急車を呼ばないと……。ああ、でも何だか視界がぼやけてきておまけに手足までふらついてきた。いや駄目だ、ここで倒れたら……雛子は……。
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