10
石の階段を降りるたび、空気が変わっていくのが分かった。冷たさではない。沈黙の質が違うのだ。
地上の沈黙が風の中にあるなら、ここは、星の沈黙だった。
カタリナは、手にした魔術具の光を頼りに、前を行くラウノの背を見つめていた。彼の歩き方は、慎重で、そしてどこか、孤独だった。
「ラウノ君。ここ、なんだか妙な感じがしないかい?足元が宙に浮いているような……」
ヴィクトーリアが後方で周囲を警戒しながら、時折、足元に目を走らせる。彼女の歩調はおぼつかないが、銃を抜く準備は常に整っているようだった。
「おや、意外にも魔術適正があるのですね……その不快感は、空気中に大量の魔素があるときに感じられる魔素の流入です。いわゆる、魔力酔いなどと呼ばれているものですよ」ラウノは壁に刻まれた古代文字を読みながら言う。
「今度、魔術流入を遮断する術をお教えしましょう」
「おぉ、いいね!これで僕も魔術師の仲間入りだね」ヴィクトーリアが楽しそうにラウノの肩を組む。
「魔術師
「それはもしかしなくても、人体実験だよね?ねぇ、人体実験だよね?」
カタリナは、二人のやり取りに微笑みながらも、足を止めた。
――空気が変わった。風が、地下にあるはずのない方向から吹き抜けた。カタリナは前方に目を向ける。そこに、扉があった。
ラウノは肩に置かれたヴィクトーリアの手をそっと外し、前を向いた。
階段の終点には、重厚な扉があった。黒曜石のような材質に、ダルマティア旧王家の紋章が浮かび上がっている。
ラウノが振り向き言う。
「ここは迷宮で間違いないと思います――念の為確認しますが、扉を開いたあと、何があるのか分かりません」
「分かってるって。君がお得意の魔術で罠がないか、敵がいないか索敵してくれるんだろう?それまで動かないさ」
「ええ、よろしくお願いします。私は短命種としては魔術に長けますが、このような迷宮はエルフやノーム、時に
ラウノはやや間をおいてから、独白するが如く続ける。
「……認め難いですが事実として、彼らの魔術の力量は私のそれを遥かに上回るわけでして……私の魔術がどこまで通用するのか、それは分かりません」
急に言い淀むラウノを見て、カタリナは自分もかつて感じた劣等感を見て取れた。
カタリナは今でこそ総督としてお飾りなりにも務めているが、カタリナの兄弟は傑物揃いであった。
あの暗く濁ったなんとも言いしれぬ不快感が、心の奥底で渦巻く感覚は、自らを追い詰める精神的な枷となっていた。
ラウノも同じかもしれない――そう思うと、カタリナは口を閉ざしたままではいられなかった。
「ええ、そうかもしれません。でもあなたがいなければ、私たちはここにたどり着くこともなかったでしょう。その成果は誇ってください――あなたの智謀と献身に感謝しています」
励まされることに慣れていないのだろうか、ラウノはぽかんと口を開けたまま、カタリナの瞳をじっと見ていた。
カタリナも自分の口走ったことを思い出し、何を言っていいのか分からず、顔を赤らめて後ろを向いてしまう。
「さて、ここはおそらく、私の出番ですね」
誤魔化すように扉の前に立ったカタリナが手をかざすと、空気が震え風が通った。扉が、ゆっくりと開いていく。
その先に広がっていたのは神殿のような空間だった。天井は高く、星図を模した装飾が施されている。
壁には神々の名が刻まれ、中央には五つの石像が天を仰いでいて、石像はどれも同じローブを深く被っていた。
それぞれの石像の手前には同じく五つ、石でできた台が並ぶ。台には窪みが開いており、その手前に置かれた石碑がちょうどはまりそうだった。
「試練の間、でしょうか?」カタリナが呟く。
ラウノは頷きながら、使い古した茶革の手帳を手に取った。
「マテイ殿の語った童話によると、最初の試練は知識を問うものだとか」
「確か……童話では、青の男神ゼリュンが王子に問題を出していたよね?五つも石像は並んでいなかったはずだよ」
ヴィクトーリアの疑問にラウノが少し呆れて答える。
「きっと問題は毎回変わるのでしょう。試験対策されては、試験として意味がないですからね」
毎回問題が変わる魔術の仕掛け……どれほど偉大な魔術師がこの迷宮を作ったのであろうか。
星図を模した天井の下、石碑が並ぶ空間に、沈黙が満ちていた。
カタリナは、ラウノの背を見つめながら、胸の奥に微かな緊張を感じていた。彼の手が、石碑の表面をなぞるたびに、淡い光が走る。そこに刻まれているのは、古代文字――神々が用いたとされる、数万の表意文字からなる魔術言語だった。
「読めるのかしら?」
思わず漏れた問いに、ラウノは肩越しに答える。
「読める、というより……推測する、ですね。これは言語というより、意志の迷路です」
彼の声は、いつになく静かだった。
カタリナは、神話の授業でこの古代文字に苦しんでいたことを思い出す。文法は流動的で、語順は意味を裏切る。しかも、同じ文字列でも、文脈や魔素の流れによって発音も意味も変わるという。
「これは……問題文を探すところから始まる試練です。まるで、神々が〝問い〟そのものを隠しているようだ」
ラウノは、天球儀を展開し、星図と石碑の配置を照合し始めた。
「この文字は……この順で読んで、こっちは無視するから……こうだな」
ラウノが羽ペンを宙に走らせると、光り輝く現代文字が浮かぶ。
『闇より生まれし夜、
まだ星なき天蓋の下、
五つの贈り物を携えし者たちが、
互いの名を呼ぶことなく、
静かに誓いを交わした。
ひとつは始まりの光、
ひとつは知恵の羽根、
ひとつは命の息吹、
ひとつは情熱の炎、
ひとつは沈黙の帳。
星々の間に隠されたその名を、
沈黙の石碑に刻め』
カタリナは、ラウノの横顔を見つめた。その表情には、迷いも焦りもなかった。ただ、静かな確信があった。
「これは簡単ですね……『星降る夜の誓約』のことでしょう」
星降る夜の誓約は神話の一節で、世界創造の場面をしるしたものだ。カタリナもその内容を口ずさむ。
『かつて世界がまだ若く、夜空に星が一つもなかった時代。
神々は地上の民に〝希望の灯〟を与えるため、天空に星を灯すことを決意した。
白の主神ズラエルは〝始まりの光〟を掲げ、
青の女神ヴァールタは〝知恵の羽根〟を広げて星座の形を描いた。
緑の女神エリュネは〝命の息吹〟を星々に吹き込み、
赤の男神カルムーンは〝情熱の炎〟を星に宿した。
黒の女神イシュラは〝夜の静寂〟をもたらし、星々の間に沈黙を敷いた。
こうして、五柱の神々が協力し、夜空に初めて星が生まれた。
その星々は、地上の者たちに〝希望〟〝知恵〟〝命〟〝情熱〟〝静寂〟という五つの贈り物をもたらしたという』
「そうです。よく覚えていますね、さすがです」
ラウノは石碑を一つずつ運ぶと、解答欄と思われる窪みに差し込んでいく。
「石碑にはそれぞれ神々の名が刻まれています。ですから、ズラエル、ヴァールタ、エリュネ、カルムーン、イシュラの順に石碑をはめれば……」
ラウノが最後の石碑を窪みに差し込むと、神殿の空気が震えた。星図の天井が淡く輝き、五柱の石像の目元に、微かな光が灯る。
だが、次の瞬間――空間が軋むような音を立て、魔術陣が崩れた。
ラウノが驚愕の声を漏らす。
「これは……魔術遮断結界。神々の加護すら届かない領域です」
彼の手元の天球儀が、まるで命を失ったかのように沈黙する。魔素の流れが断ち切られ、空間は重く、冷たく、無慈悲な沈黙に包まれた。
そのとき、神殿の奥から現れたのは、黒い鎧に身を包んだ異形の騎士だった。顔は仮面に覆われ、手には銀符文を逆刻した大剣を携えている。
ラウノが一歩後退する。
「魔術が……通じません。これは、力の試練です」
ヴィクトーリアが前に出る。彼女の目は、戦場の獣のように鋭く光っていた。
「ようやく、僕の出番ってわけだね」
彼女はM07-K式護衛拳銃を抜き、銀符文の照準器が起動して魔術干渉防止加工が施された銃身が、敵の胸元を正確に捉える。
「魔術が効かないなら、物理で黙らせるまでさ」
カタリナが息を呑む。ラウノは、彼女の肩に手を置き、静かに言った。
「今は、彼女に託しましょう。これは、信頼の試練でもあります」
神殿に響く銃声。ヴィクトーリアの一撃が、沈黙の帳を切り裂いた。
ヴィクトーリアはM07-K式護衛拳銃を構え、敵の胸元に向けて連射した。銀符文の照準器が正確に捉えたはずの弾丸は、しかし、分厚い鎧に吸い込まれるように弾かれ、火花を散らすだけだった。
「ちっ……やっぱり通らないか!」
彼女は即座に背中のアポニー式M95長銃に手を伸ばす。ボルトアクション式の重厚な銃身が、彼女の手に馴染むように収まる。
だが――その一瞬の隙を、敵は見逃さなかった。
黒い鎧の騎士が、音もなく距離を詰める。ヴィクトーリアはとっさに腰の短剣を抜き、迫る大剣を受け止めた。
金属が軋む音。衝撃が腕を貫き、短剣は弾き飛ばされる。
「くっ……!」
体勢を崩しながらも、ヴィクトーリアは転倒を免れ、長銃を杖のように地面に突いて立ち上がる。敵は間合いを詰め、次の一撃を放っていた。
「このっ……!」
黒い鎧の騎士の剣が闇を裂く瞬間、ヴィクトーリアは長銃を巧みに操り、その軌跡を逸らした。
返す手で銃身を構え、呼吸と鼓動を一つに重ねる。
引き金が沈むと同時に、火花が夜の帳を裂き、弾丸は銀の流星のように走った。
その軌跡は、黒騎士の肩を貫き、沈黙の神殿に一瞬の衝撃を刻みつけた。
「よしっ……ってうわっ‼」
肩を撃ち抜かれたにも関わらず、黒騎士の動きは全く衰えることなく、さらなる斬撃を放つ。
「ヴィクトーリアさん!相手はゴーレム兵なので痛覚はないと思います!」
「早く教えてよっ‼」
ヴィクトーリアは、長銃の銃床で大剣を受け流しつつ、敵の動きに合わせて一歩、また一歩と後退する。呼吸を整え、敵の鎧の隙間を探る視線は、獣のように鋭い。
一瞬、神殿の高窓から差し込んだ光が、黒騎士の鎧の隙間を照らした。その瞬間、敵の動きがわずかに鈍る――ヴィクトーリアはその変化を見逃さなかった。
「……光、か。あんた、光が嫌いなんだな?」
ヴィクトーリアは懐からM15型柄付炸裂弾を取り出す。魔術式ではない、純粋な閃光と衝撃をもたらす兵器。
「じゃあ、これでどうだ!」
黒騎士は、まるで影が形を持ったかのように、音もなく滑るように間合いを詰めてきた。その動きには、人間らしい逡巡も、痛みの色もなかった。
繰り出した刺突はヴィクトーリアの左腕をかすめ、同時に炸裂弾が床に転がり、閃光が神殿を満たす。
黒騎士は咆哮を上げ、動きを止めた。
満身創痍の身体を引きずりながらも、ヴィクトーリアは長銃を杖にして立ち上がる。敵の咆哮が神殿に響く中、彼女は静かに、しかし確かな足取りで間合いを詰めていく。
「終わりだよ、仮面の騎士さん」
その声には、恐怖も、痛みも、ただ戦い抜く者の静かな覚悟だけが宿っていた。
沈黙が、神殿に戻った。
ヴィクトーリアは壁際に腰を下ろした。左腕には深い傷が残り、血が滲んでいる。
カタリナはすぐに駆け寄り、懐から包帯と薬瓶を取り出した。
「動かないで。……痛むでしょう?」
「へへ、大したことないですよ。これくらい、戦場じゃ日常茶飯事です。でも、殿下の手当ては特別だ……なんだか、痛みが和らぐ気がします」
カタリナは無言で微笑み、手際よく傷口を洗い、包帯を巻いていく。ラウノが周囲を警戒しながら、静かに言った。
「次の間が見えました。……扉には、天秤の紋章が刻まれています」
「天秤……?」
「神話では、天秤は〝犠牲〟と〝選択〟の象徴です。次の試練は、おそらく――」
ヴィクトーリアが顔を上げ、冗談めかして言う。
「また頭を使うやつ? それとも、今度は腕力勝負?」
「……どちらでもないかもしれません」カタリナは包帯を結びながら、静かに続けた。「〝誰が試練を受けるか〟を、私たち自身が選ばなければならないのかも」
沈黙が落ちる。
ヴィクトーリアは傷ついた腕を見下ろし、苦笑した。
「さすがに、今の僕じゃ足手まといかな。でも、仲間を危険な目に遭わせるのは、もっと嫌だよ」
ラウノが言葉を継ぐ。
「神話の〝犠牲の天秤〟は、己を差し出す覚悟を問うものです。だが、真の答えは〝互いを思う心〟にあると伝えられています」
カタリナはヴィクトーリアの手をそっと握った。
「私たちは、誰か一人を犠牲にするためにここに来たんじゃない。……一緒に進みましょう。どんな試練でも、私たちの絆で乗り越えられるはず」
扉の向こう、天秤の間には、まだ見ぬ試練が待っている。三人は互いの顔を見つめ、ゆっくりと歩みを進めた。
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