7
包囲が解かれたイニス人街は、まるで長い息を吐き出したかのように、静かに動き始めた。
軍の隊列が後退し、通りの緊張がわずかに緩む。だが、空気はまだ重かった。恐怖は、命令一つで消えるものではない。
窓の隙間から覗く瞳、扉の影に潜む気配――それらは、まだこの街が信じていない証だった。
ラウノは石畳を踏みしめながら歩いていた。
足元には、逃げるように残された足跡。壁には、色褪せた布告が貼られたまま。
風に揺れる洗濯物が、誰かの生活の名残を語っていた。
「人々は、まだ信じていない」
ラウノは呟いた。
「包囲が解かれても、恐怖は残る。信頼は、言葉ではなく行動で築かれるものです」
カタリナは彼の言葉に頷き、街の奥へと視線を向けた。その先に、死体が発見されたという裏路地がある。
「ラウノ殿、死体の検分をお願いできますか?」
「もちろんです。星が語るなら、真実を見つけられるでしょう」
ラウノは
その時、マテイが現れた。
小柄な体格に、仕立ての良い赤茶色のスーツを纏い、顎には整えられたダックテイルの髭があった。
くせのある茶髪が風に揺れ、琥珀色の瞳が、疲労と怒り、そしてわずかな希望を宿していた。
商家の息子らしい洗練された身なりと、イニス人としての誇りが、彼の立ち姿に滲んでいた。
「総督閣下。包囲を解いてくださったことには感謝します」
彼は街の代表として、カタリナに歩み寄る。その顔には疲労と怒り、そしてわずかな希望が混じっていた。
「ですが、我々はまた疑われています。死体がここにあるというだけで、我々が殺したと?」
カタリナは静かに答えた。「だからこそ、真実を確かめに来ました。あなた方を守るために」
マテイはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。「では、案内しましょう。死体は、裏路地の廃屋にあります」
その言葉に、ラウノは
魔術は、証拠を語るが、裁くことはできない――それは、政治家の役目だ。
廃屋の裏路地は、湿った空気に包まれていた。瓦が崩れかけた屋根の下、積み上げられた木箱の上に、死体は横たわっていた。
王家の紋章を刻んだ外套を身にまとい、顔は血と泥に覆われ、判別は困難だった。
カタリナは一歩踏み出し、死体を見下ろした。その瞳には、怒りでも悲しみでもない、ただ真実を求める静かな光が宿っていた。
マテイは少し離れた場所で腕を組み、街の代表としてその場に立っていた。
「この男を見たことはない」と彼は言った。「少なくとも、我々の街の者ではない」
ラウノは死体の傍にしゃがみ込み、手袋を外した。指先が空気をなぞると、周囲の温度がわずかに変化する。彼は指先から
星々が淡く輝き、死体の上に光の網を広げていく。それは、星の記憶を呼び起こす魔術――存在の痕跡を探る術だった。
「星よ、語れ。この者の名を、運命の軌道に刻まれているか否かを」
ラウノは眉をひそめ、死体の胸元に手をかざす。魔力の残留を探るが、そこには何の痕跡もなかった。
「これは……偽装です」ラウノは静かに言った。「星はこの者を『レナート村出身の一兵卒』と語っています」
「それはおかしい。アーロン卿は生まれながらの貴族だ」ヴィクトールがアーロン卿の生い立ちを説明する。
ラウノは遺品に手をかざしながら続ける。「魔力の痕跡もない。王命を帯びた者であれば、何らかの保護魔術が施されているはずです」
カタリナは死体を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり、これは……誰かが意図的に他人を置いたもの」
「ええ。王家の紋章も、複製です。魔術的な刻印がない。見せかけだけのものです」
ラウノは
魔術は語った。だが、語られた真実をどう扱うかは、政治の問題だ。
マテイは静かに言った。「ならば、我々は濡れ衣を着せられたということか」
その言葉に、カタリナは頷いた。「この死体は、真実を隠すための道具です。誰かが、王命を妨げるために仕組んだ」
検分が終わり、死体が偽装であることが明らかになると、沈黙が場を包んだ。
その沈黙を破ったのは、マテイだった。
「……では、これからどうするおつもりですか、総督閣下?」
その問いに、カタリナは迷いなく答えた。
「犯人を捕らえます。真実を暴き、責任を問う。それが、この地に正義をもたらす唯一の道です」
ラウノは肩をすくめた。
「正義とは便利な言葉ですね。誰もが口にするが、誰もそれを持っていない」
その言葉に、ヴィクトーリアが割って入った。
「ちょっと待ってくれ、犯人は分かっているも同然じゃないか。みんな、モーリツが仕組んだに決まってるじゃないか」
「決まっている、ね」 ラウノは呆れたように息を吐いた。
「証拠がなければ、それはただの憶測です。魔術でも、推測を真実にはできません」
「それはそうだが……」ヴィクトーリアが苦虫を嚙み潰したような顔をする。
ラウノは、カタリナとマテイの間に流れる空気を感じ取っていた。これは、政治の場だ。魔術師は、証拠を差し出すだけ。
その証拠をどう使うかは、彼らの役目だった。
カタリナはマテイに向き直り、静かに言った。
「マテイ殿、私たちは皆、今回の一連の事件がモーリツの悪行によるものと信じています。でも、証拠がない。証拠がなくては、私はあの巨悪を払う術を持ち合わせていないのです」
カタリナは悔しそうに下唇をかみしめてから、もう一度顔を上げる。
「私はあなたと協力したい。イニスの人々のために、共に真実を追い、未来を築きたい」
ラウノはマテイの表情を観察した。彼の瞳には、誠意と疑念が交錯していた。
「協力を惜しむつもりはありません。イニスのためなら、私は何でもする」 だが、と続ける。
「包囲を解いただけでは、まだ信用できません。これは、マイナスをゼロに戻しただけです。我々は、長い間、ゼロ以下の場所にいたのです」
その言葉に、カタリナは深く頷いた。
「あなたの言葉は、よく理解できます。だからこそ、私は提案します」
「ダルマティア管区に、段階的に普通選挙を導入しましょう。王都と同様に、庶民院――下院を設け、民の声を政治に反映させる制度を築きます」
「それは、王家の名において、私が約束します」
その言葉が、ただの理想ではなく、現実の提案であることを、ラウノはカタリナの瞳に見た。
その瞳には、王族の威厳ではなく、民を見つめる誠意が宿っていた。
「庶民院の設立――それは確かに希望です」
マテイは静かに言った。
「ですが、希望だけでは民は動きません。私が必要なのは、保証です。言葉ではなく、形ある約束を」
カタリナは頷いた。「文書にしましょう。王家の名において、署名します」
「それだけでは足りません」マテイは続けた。
「イニス人街の自治を暫定的に認めていただきたい。治安維持、行政運営――我々自身の手で行う権利を」
「さらに、モーリツの影響力を排除する具体的な措置も必要です。彼の代理人を即時解任し、監視体制を整えていただきたい」
「そして、民の生活を立て直すための予算。包囲による損害は、言葉では癒せません」
カタリナはしばし沈黙した後、静かに言った。
「それらすべて、検討に値します。私は、あなた方の声を聞くためにここに来たのです」
マテイは目を細めた。「ならば、我々はようやく、ゼロの地点に立ったということですね」
カタリナは一歩、マテイに近づいた。その瞳には、王族としての威厳ではなく、一人の政治家としての覚悟が宿っていた。
マテイはその視線を受け止め、わずかに口元を引き締めた。
「では、条件を文書にまとめましょう。あなたの署名をいただければ、我々も動きます」
「ええ。王家の名において、約束します」
カタリナはそう言って、手を差し出した。
マテイは一瞬だけその手を見つめた。
その手が、どれほどの血と責任を背負ってきたのかを測るように。
そして、静かに、自らの手を重ねた。
握手は短く、だが確かなものだった。それは、信頼ではなく、利害の一致によって結ばれた契約。
だが、そこには確かに、未来を変えようとする意志があった。
「では、始めましょう。ゼロから」
マテイが言った。その言葉に、カタリナは微かに笑みを浮かべた。
風が再び街を撫で、瓦屋根がかすかに軋んだ。
だが、先ほどまでの沈黙とは違う。
それは、何かが動き出す前の、静かな予兆だった。
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