包囲が解かれたイニス人街は、まるで長い息を吐き出したかのように、静かに動き始めた。

 軍の隊列が後退し、通りの緊張がわずかに緩む。だが、空気はまだ重かった。恐怖は、命令一つで消えるものではない。

 窓の隙間から覗く瞳、扉の影に潜む気配――それらは、まだこの街が信じていない証だった。


 ラウノは石畳を踏みしめながら歩いていた。

 足元には、逃げるように残された足跡。壁には、色褪せた布告が貼られたまま。

 風に揺れる洗濯物が、誰かの生活の名残を語っていた。

「人々は、まだ信じていない」

 ラウノは呟いた。

「包囲が解かれても、恐怖は残る。信頼は、言葉ではなく行動で築かれるものです」

 カタリナは彼の言葉に頷き、街の奥へと視線を向けた。その先に、死体が発見されたという裏路地がある。

「ラウノ殿、死体の検分をお願いできますか?」

「もちろんです。星が語るなら、真実を見つけられるでしょう」

 ラウノは天球儀アーミラを胸元に触れながら、静かに歩き出した。


 その時、マテイが現れた。


 小柄な体格に、仕立ての良い赤茶色のスーツを纏い、顎には整えられたダックテイルの髭があった。

 くせのある茶髪が風に揺れ、琥珀色の瞳が、疲労と怒り、そしてわずかな希望を宿していた。

 商家の息子らしい洗練された身なりと、イニス人としての誇りが、彼の立ち姿に滲んでいた。

「総督閣下。包囲を解いてくださったことには感謝します」

 彼は街の代表として、カタリナに歩み寄る。その顔には疲労と怒り、そしてわずかな希望が混じっていた。

「ですが、我々はまた疑われています。死体がここにあるというだけで、我々が殺したと?」

 カタリナは静かに答えた。「だからこそ、真実を確かめに来ました。あなた方を守るために」

 マテイはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。「では、案内しましょう。死体は、裏路地の廃屋にあります」

 その言葉に、ラウノは天球儀アーミラを手に取り、星の記憶を探る準備を始めた。

 魔術は、証拠を語るが、裁くことはできない――それは、政治家の役目だ。


 廃屋の裏路地は、湿った空気に包まれていた。瓦が崩れかけた屋根の下、積み上げられた木箱の上に、死体は横たわっていた。

 王家の紋章を刻んだ外套を身にまとい、顔は血と泥に覆われ、判別は困難だった。

 カタリナは一歩踏み出し、死体を見下ろした。その瞳には、怒りでも悲しみでもない、ただ真実を求める静かな光が宿っていた。

 マテイは少し離れた場所で腕を組み、街の代表としてその場に立っていた。

「この男を見たことはない」と彼は言った。「少なくとも、我々の街の者ではない」

 ラウノは死体の傍にしゃがみ込み、手袋を外した。指先が空気をなぞると、周囲の温度がわずかに変化する。彼は指先から天球儀アーミラを取り出すと、静かに空中に浮かべた。

 星々が淡く輝き、死体の上に光の網を広げていく。それは、星の記憶を呼び起こす魔術――存在の痕跡を探る術だった。


「星よ、語れ。この者の名を、運命の軌道に刻まれているか否かを」


 天球儀アーミラが微かに震え、中心の星が一瞬だけ光を帯びた。だが、その光はすぐに消え、星図は沈黙を保った。

 ラウノは眉をひそめ、死体の胸元に手をかざす。魔力の残留を探るが、そこには何の痕跡もなかった。

「これは……偽装です」ラウノは静かに言った。「星はこの者を『レナート村出身の一兵卒』と語っています」

「それはおかしい。アーロン卿は生まれながらの貴族だ」ヴィクトールがアーロン卿の生い立ちを説明する。


 ラウノは遺品に手をかざしながら続ける。「魔力の痕跡もない。王命を帯びた者であれば、何らかの保護魔術が施されているはずです」

 カタリナは死体を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。

「つまり、これは……誰かが意図的に他人を置いたもの」

「ええ。王家の紋章も、複製です。魔術的な刻印がない。見せかけだけのものです」

 ラウノは天球儀アーミラを消し、立ち上がった。

 魔術は語った。だが、語られた真実をどう扱うかは、政治の問題だ。

 マテイは静かに言った。「ならば、我々は濡れ衣を着せられたということか」

 その言葉に、カタリナは頷いた。「この死体は、真実を隠すための道具です。誰かが、王命を妨げるために仕組んだ」


 検分が終わり、死体が偽装であることが明らかになると、沈黙が場を包んだ。

 その沈黙を破ったのは、マテイだった。

「……では、これからどうするおつもりですか、総督閣下?」

 その問いに、カタリナは迷いなく答えた。

「犯人を捕らえます。真実を暴き、責任を問う。それが、この地に正義をもたらす唯一の道です」

 ラウノは肩をすくめた。

「正義とは便利な言葉ですね。誰もが口にするが、誰もそれを持っていない」

 その言葉に、ヴィクトーリアが割って入った。

「ちょっと待ってくれ、犯人は分かっているも同然じゃないか。みんな、モーリツが仕組んだに決まってるじゃないか」

「決まっている、ね」 ラウノは呆れたように息を吐いた。

「証拠がなければ、それはただの憶測です。魔術でも、推測を真実にはできません」

「それはそうだが……」ヴィクトーリアが苦虫を嚙み潰したような顔をする。


 ラウノは、カタリナとマテイの間に流れる空気を感じ取っていた。これは、政治の場だ。魔術師は、証拠を差し出すだけ。

 その証拠をどう使うかは、彼らの役目だった。

 カタリナはマテイに向き直り、静かに言った。

「マテイ殿、私たちは皆、今回の一連の事件がモーリツの悪行によるものと信じています。でも、証拠がない。証拠がなくては、私はあの巨悪を払う術を持ち合わせていないのです」

 カタリナは悔しそうに下唇をかみしめてから、もう一度顔を上げる。

「私はあなたと協力したい。イニスの人々のために、共に真実を追い、未来を築きたい」

 ラウノはマテイの表情を観察した。彼の瞳には、誠意と疑念が交錯していた。

「協力を惜しむつもりはありません。イニスのためなら、私は何でもする」 だが、と続ける。

「包囲を解いただけでは、まだ信用できません。これは、マイナスをゼロに戻しただけです。我々は、長い間、ゼロ以下の場所にいたのです」

 その言葉に、カタリナは深く頷いた。

「あなたの言葉は、よく理解できます。だからこそ、私は提案します」


「ダルマティア管区に、段階的に普通選挙を導入しましょう。王都と同様に、庶民院――下院を設け、民の声を政治に反映させる制度を築きます」

「それは、王家の名において、私が約束します」

 その言葉が、ただの理想ではなく、現実の提案であることを、ラウノはカタリナの瞳に見た。

 その瞳には、王族の威厳ではなく、民を見つめる誠意が宿っていた。

「庶民院の設立――それは確かに希望です」

 マテイは静かに言った。

「ですが、希望だけでは民は動きません。私が必要なのは、保証です。言葉ではなく、形ある約束を」

 カタリナは頷いた。「文書にしましょう。王家の名において、署名します」

「それだけでは足りません」マテイは続けた。

「イニス人街の自治を暫定的に認めていただきたい。治安維持、行政運営――我々自身の手で行う権利を」

「さらに、モーリツの影響力を排除する具体的な措置も必要です。彼の代理人を即時解任し、監視体制を整えていただきたい」

「そして、民の生活を立て直すための予算。包囲による損害は、言葉では癒せません」

 カタリナはしばし沈黙した後、静かに言った。

「それらすべて、検討に値します。私は、あなた方の声を聞くためにここに来たのです」

 マテイは目を細めた。「ならば、我々はようやく、ゼロの地点に立ったということですね」


 カタリナは一歩、マテイに近づいた。その瞳には、王族としての威厳ではなく、一人の政治家としての覚悟が宿っていた。

 マテイはその視線を受け止め、わずかに口元を引き締めた。

「では、条件を文書にまとめましょう。あなたの署名をいただければ、我々も動きます」

「ええ。王家の名において、約束します」

 カタリナはそう言って、手を差し出した。

 マテイは一瞬だけその手を見つめた。

 その手が、どれほどの血と責任を背負ってきたのかを測るように。

 そして、静かに、自らの手を重ねた。

 握手は短く、だが確かなものだった。それは、信頼ではなく、利害の一致によって結ばれた契約。

 だが、そこには確かに、未来を変えようとする意志があった。

「では、始めましょう。ゼロから」

 マテイが言った。その言葉に、カタリナは微かに笑みを浮かべた。


 風が再び街を撫で、瓦屋根がかすかに軋んだ。

 だが、先ほどまでの沈黙とは違う。

 それは、何かが動き出す前の、静かな予兆だった。

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