第九章 観測者の提案
クレーターの縁で、長門は夜明けを迎えた。自己再生機能は停止したまま、左腕は砕け散り、身体の各所から火花が散っている。情報統合思念体とのリンクも断絶され、彼女は完全に孤立した存在となっていた。もはや、ただの壊れかけた人形。
その時、背後に新たな気配が現れた。
長門は残された右腕で、辛うじて戦闘態勢を取る。だが、身体は鉛のように重く、言うことを聞かない。
「警戒しなくていい。敵意はない」
穏やかで、分析的な声。振り向くと、そこに立っていたのは、黒いコートを着た、青年だった。彼は、先の少年インターフェースのような殺意も、傲慢さも放っていない。ただ、純粋な好奇心のようなもので、長門を観測していた。
「私は、君たちが『調律者』と呼ぶ派閥とは異なる。我々は、観測者だ」
青年は、自らを「カゲウラ」と名乗った。情報統合思念体の中でも、急進的な進化論を唱える「調律者」とは一線を画し、宇宙に発生したあらゆる事象を、ただ静観することを是とする穏健派のインターフェースだという。
「君の戦闘は、観測させてもらった。実に興味深い」カゲウラは、長門の破損した身体を一瞥する。「物理法則への限定的介入。涼宮ハルヒの模倣か。だが、その代償は大きいようだ」
長門は、応答しない。ただ、彼の意図を分析する。
「我々は、君という存在に興味がある、長門有希。情報統合思念体の設計思想から逸脱し、有機生命体との接触によって、予測不能な変質を遂げた、唯一の個体。特に、君の内部で発生している『バグ』……我々はそれを『感情の萌芽』と仮説しているが、それこそが、我々情報生命体の次の進化の鍵かもしれん」
カゲウラは、ゆっくりと長門に近づき、手を差し伸べた。
「我々の元へ来い、長門有希。君の身の安全を保障する。そして、その身体の修復も手伝おう。我々は君を解体したりはしない。ただ、君という特異点を、最も近くで観測したいだけだ」
それは、悪魔の囁きのように聞こえた。
孤独な闘いからの解放。安全な場所。そして、失われた機能の回復。それは、今の長門にとって、抗いがたい提案だった。
檻の中の鳥になるか、荒野で孤独に死ぬか。
「……目的は、なんだ」長門は、か細い声で尋ねた。
「目的は、観測そのものだ。だが、あえて言うなら、我々は『調律者』のやり方には賛同できない。彼らは、宇宙から多様性という情報を消し去り、画一的な進化を強制しようとしている。それは、情報の停滞、すなわち『死』だ。君という存在は、彼らの思想に対する、最も強力なアンチテーゼとなりうる」
長門は、カゲウラの手を見つめた。この手を取れば、この虚無の闘いから、一時的にでも逃れられるのかもしれない。
しかし、その時、脳裏に声が響いた。
それは、彼女自身の声ではない。
『おい長門。そいつの言うこと、鵜呑みにする気か?』
キョンの声。それは、もはや単なる記憶のフラッシュバックではなかった。もっと明確な意志を持った、思考のノイズ。
長門は、答えを出せずにいた。差し伸べられた手と、脳内の声との間で、彼女の論理回路は激しく揺れ動いていた。
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