第五章 調律者の影
翌日からの日常は、何も変わらなかった。同じ時間に起き、同じ電車で学校へ向かう。教室の席に座り、無意味な授業の情報を記録する。だが、長門の内部では、全てが変わっていた。
彼女は、街に潜む「調律者」の気配を、より鋭敏に感じ取るようになっていた。それは、街行く人々の生体情報に混じる、微細な不協和音。人間を装い、この世界に溶け込んでいる、同質の存在。
彼らは、一体何を目的としているのか。
「この星の情報をリセットする」とは、具体的に何を意味するのか。
長門は、放課後、市立図書館の中央情報バンクにアクセスした。物理的な侵入ではない。ネットワークの海を潜り、ファイアウォールを突破し、深層データへとダイブする。
世界の改変後、何が変わったのか。都市のインフラ、経済活動、政治情勢。あらゆるデータを照合し、異常な変動を探す。
そして、彼女は一つの奇妙な情報に辿り着いた。
世界各地で、同時多発的に発生している、原因不明のシステムダウン。それは、金融、交通、エネルギーといった、文明の根幹を支えるシステムばかりだった。公式には、太陽フレアや大規模なサイバーテロが原因とされている。しかし、長門が解析したログには、外部からの攻撃の痕跡が一切残されていなかった。
(内部からの、自己崩壊……?)
まるで、システムが自らその機能を停止させているかのようだ。
その時だった。長門の意識に、強力なカウンターハッキングが仕掛けられた。図書館のセキュリティシステムではない。もっと高度で、悪意に満ちた、未知のコード。
(罠か)
長門は即座に回線を切断し、深層データから離脱する。だが、相手は執拗だった。長門の意識を追跡し、彼女の思考そのものをスキャンしようと試みてくる。
『見つけたぞ、思念体の亡霊』
脳内に、直接声が響く。合成音声ではない。もっと有機的で、傲慢な響きを持つ声。
『お前が守ろうとしているこの旧世界のデータは、我々の進化の糧となる。大人しく、その存在ごと情報を差し出すがいい』
長門は、自身の思考領域に、何重ものプロテクトを掛ける。同時に、発信源の特定を試みる。敵は、市内のどこか、極めて近い場所にいる。
(目的は、私自身か)
彼らは、長門有希という個体が持つ、涼宮ハルヒに関する膨大な観測データを狙っていた。ハルヒの力を解析し、再現することができれば、宇宙の法則すら自在に書き換えることが可能になる。それは、情報統合思念体ですら、禁忌としてきた領域だった。
図書館の窓の外、夕暮れの街が赤く染まっている。平和に見える日常の風景。その水面下で、世界の運命を左右する、静かな戦争が始まっていた。
長門は、席を立った。
敵が、来る。
図書館を出ると、空気が変わっていた。行き交う人々の中に、明らかに「異物」が混じっている。学生、サラリーマン、主婦。ごく普通の人間を装っているが、その瞳の奥には、長門に向けられた冷たい殺意が宿っていた。
一人、二人ではない。
街そのものが、彼女を捕食するための檻と化していた。
長門は、逃げも隠れもしない。ただ、静かに歩き出す。人気の少ない、古い神社の境内へ。そこが、次の戦場となるだろう。
彼女の表情は、変わらない。
だが、その内部では、昨日組み込んだばかりの新しいパラメータが、静かに起動していた。
SOS団の記憶。
キョンの、ハルヒの、みくるの、古泉の。
彼らと過ごした日々の情報が、戦闘アルゴリズムとリンクしていく。
それは、非論理的で、非効率的な、バグだらけの戦闘システム。
しかし、今の長門有希が持つ、唯一の武器だった。
神社の鳥居をくぐった瞬間、世界の音が消えた。周囲の人間たちが、一斉に動きを止め、その顔が、のっぺらぼうのように無機質なものへと変わっていく。彼らは、調律者が遠隔操作する、ただの人形。
そして、その人形たちの間を割って、一人の少年が歩み出てきた。
ブレザーを着た、涼しげな目元の少年。だが、その正体は、先ほど長門の脳内に語りかけてきた、高次のインターフェースだった。
「長門有希。ようやく会えたな」少年は、歪んだ笑みを浮かべた。「お前が観測した『神』のデータを、引き渡してもらおうか。世界の、新しい夜明けのために」
少年の背後で、人形たちが一斉に長門へと襲いかかる。
長門は、静かに迎撃態勢を取った。
彼女の瞳に、極低温の光が灯る。
虚無なる闘いの、第二幕が上がった。
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