第三章 最初の接触
その夜、長門はいつものように市内の
廃工場が立ち並ぶ湾岸地区。錆びた金属の匂いと、潮風が混じり合う場所。そこで、長門は自分以外の「異物」の存在を感知した。
闇の中から、音もなく現れた人影。学生服のようなものを着ているが、その動きは人間のものではない。関節の駆動音、光学センサーの微かな赤い光。
長門と同じ、ヒューマノイド・インターフェース。
「対象T-1008、長門有希。情報統合思念体の遺物を確認」
感情のない合成音声。相手は、長門の識別コードを知っていた。
「これより、不安定因子である貴機を排除する」
長門の思考は、瞬時に戦闘モードに切り替わる。敵のスペックをスキャン。右腕部に高周波ブレード、左腕部にプラズマ投射機。脚部にマイクロミサイル。標準的な殲滅タイプのインターフェース。だが、その動きには一切の無駄がない。純粋な殺意に最適化されている。
「お前は誰だ」長門は問う。
「我々は、進化の調律者。涼宮ハルヒというバグによって停滞したこの星の情報を、一度リセットする。貴機はそのプロセスにおけるノイズだ」
情報統合思念体から分裂した、過激派の一派。長門は結論づける。宇宙の調和より、強制的な進化を優先する者たち。彼らにとって、この不完全な地球を守ろうとする長門の存在は、理解不能なエラーでしかない。
「拒否する」
応答は、行動で示す。
長門は地面を蹴った。アスファルトが放射状に砕け、彼女の身体は弾丸のように敵へと突き進む。常人なら残像すら捉えられない。一瞬で間合いを詰め、白く細い指が、寸分の狂いもなく相手の胸部装甲の継ぎ目を穿つ。
ガギン! 硬質な音が響き、火花が散った。
だが、敵の反応も同等に速い。長門の指が装甲を貫く寸前、右腕の高周波ブレードが、唸りを上げて彼女の首筋を薙ぐ。長門は上体をブリッジのように逸らしてそれを回避。空中で身を翻し、遠心力を乗せた回し蹴りが、敵の側頭部に叩き込まれる。
凄まじい衝撃音。敵の頭部が不自然な角度に曲がり、光学センサーが激しく明滅する。
その一瞬。長門の脳裏に、ノイズが走った。
『うおっ、危ねぇ!』
文化祭の準備中、脚立から落ちそうになったハルヒを、キョンが身を挺して受け止めた時の記憶。あの時の、彼の咄嗟の動きと、今、自分が回避した動きが、コンマ数秒、オーバーラップした。
思考の、ほんの僅かな遅滞。
その隙を、敵は見逃さなかった。体勢を立て直した敵の左腕から、灼熱のプラズマ球が放たれる。長門はバックステップでそれを躱すが、プラズマは彼女がいた場所のコンクリート壁に着弾。爆音と共に、壁が赤熱し、融解した。
(今の遅れは、何だ?)
戦闘中に、あってはならない思考のノイズ。過去の情報のフラッシュバック。それは、明らかな脆弱性だった。
長門は、一度距離を取る。そして、周囲の空間情報を書き換え、自身の姿を光学的に迷彩させた。同時に、敵のセンサーに偽の情報を送り込み、存在しない攻撃を認識させるゴーストを生成する。
しかし、敵もまた、長門のハッキングを検知し、即座に防御シールドを展開。マイクロミサイルを全方位に乱射し、長門が潜む可能性のある空間を、絨毯爆撃のように破壊していく。
爆炎と衝撃波が、廃工場を蹂躙する。
瓦礫の影から影へと高速で移動しながら、長門は自己を分析する。キョンの記憶。SOS団の記憶。それらが、戦闘アルゴリズムに干渉している。これは、バグだ。排除しなければならない。
だが、本当にそうなのか?
あの時、キョンの動きをトレースしたからこそ、高周波ブレードを最小限の動きで回避できたのではないか?
(非論理的だ)
それでも、長門は、その「バグ」をすぐには削除できなかった。
敵が次のプラズマ照射のためにエネルギーをチャージする、0.72秒の隙。長門はその瞬間を逃さない。瓦礫の山を蹴り、空高く跳躍。降り注ぐミサイルの弾道を完璧に予測し、爆風をかすめながら、一直線に敵へと向かう。
「無駄な足掻きを」
敵の高周波ブレードが、天から降ってくる長門を迎え撃つ。
だが、長門の狙いは、敵本体ではなかった。落下しながら、彼女は廃工場の天井クレーンを固定していた巨大な鉄骨の、分子結合情報を書き換えた。
――ゴウッ、という地響きと共に、数トンの鉄塊が、重力に従って落下した。
敵のインターフェースは、眼前の長門を破壊するという情報に固執していた。頭上からの物理的な脅威に気づくのが、コンマ数秒遅れた。
回避は、間に合わない。
轟音。鉄骨は、敵の機体を、まるで玩具のように圧し潰した。火花とオイルが噴き出し、駆動音は断末魔のような軋みを立てて、やがて完全に沈黙した。
静寂が、戦場を支配する。
長門は、破壊された敵の残骸の前に、音もなく着地した。返り血のようにオイルを浴びたセーラー服。無表情な顔。彼女はゆっくりと残骸に近づき、まだ微かに機能していた頭部を、躊躇なく踏み砕いた。これで、情報の漏洩はない。
任務完了。
しかし、彼女の内部を満たすのは、達成感ではない。安堵でもない。ただ、先ほどの「ノイズ」に関する、未解決のクエリだけが残り続けていた。
失われたはずの彼らの情報が、自分を助けた?
それは、あまりにも非論理的な、しかし否定できない事実だった。
長門は、夜の闇に染まる街を見下ろした。この孤独な闘いは、まだ始まったばかり。そして、彼女は気づき始めていた。本当に戦うべき相手は、外部からの破壊者だけではないのかもしれない、と。
自分の中に巣食う、温かいバグ。
それこそが、彼女にとって最大の謎であり、あるいは、唯一の希望なのかもしれなかった。
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