第10話 冷たい太陽

 ——あいつルーチェの、骨の髄まで凍ったような目が、死ぬほど嫌いだった。



 由緒正しい武門の令嬢。軍総司令官の娘。生まれながらに背負わされた期待に応えるどころか、それを軽々と越えていくような天才魔導士。

 誰もに名を知られ、誰もに憧れられる高嶺の花。


 本人が望んでそうなったわけじゃないだろう。常に陽のあたるところを歩く人生は、きっとしんどい。

 それでも同じく国に仕えながら、決して名前と功績が結び付いてはならない影の諜報員としては、明るい日向に立っていられる彼女がどこか羨ましかった。


 そして、そんなありったけの陽の光を浴びて生きてきたようなそいつが、まだ温まり足りないとでも言うような顔をしていることが、心底気に食わなかった。



「——フ! おい! 聞いてんのか、レフ!」


 ぱんっ、と鋭い痛みが後頭部を直撃する。


「いってぇ……。なんだよ」

「なんだよ、じゃねーよ。お前、さっきの会議の話聞いてたか?」


 見上げれば背後には、資料片手に顔を顰めた同僚のカイル・クロイツがいた。

 彼はレフとは違い、情報管制課の所属だ。入局期が同じだったため、研修で知り合い、それからも何度か共同で任務をこなしている。諜報員ではあるが、潜入や交渉よりもハッキングを専門とする技術屋だ。


「聞いてたよ。魔術研究系の企業が怪しいから、近々そいつらの新プロジェクト祝賀会に潜入するって話だろ。俺は表で情報を抜いて、お前はサーバーをハックする」

「チッ、聞いてたのかよ」


 カイルはつまらなさそうに舌打ちをする。

 大きな目が柔和な印象の、人当たりが良さそうな顔立ちをしているが、濃いクマと粗暴な仕草のせいで台無しだ。

 もっとも、ここの連中なんてだいたいそんなものだが。


「聞いてなかったら、一発ぶん殴ってやろうと思ってたのになぁ……」などと物騒なことをぼやくそいつを横目に、レフは配布資料をぱらぱらとめくった。


 企業の概要、祝賀会の詳細、配属メンバーの役割、ターゲット候補の幹部社員や社長令嬢のプロフィール——。

 どれも視界には入ってくるのに、内容がまるで頭に入ってこない。


「そういえば、例の婚約者とはどうなんだよ。昨日は二人で帰ったみたいだけど」

「……っはぁ!?」


 唐突に投下された爆弾に、危うく資料を落としかける。そんなレフの反応を面白がるように、カイルはニヤニヤと笑いながら隣の椅子に腰を下ろした。


「なんで知ってんだよ」

「あの辺は情報局の監視カメラが多いんだよなぁ」

「職権濫用だろ……」


 レフは額を押さえて、ため息をついた。


「別に、お前が期待してるようなことは何もねーよ。あんな時間に一人で帰るのは危ねぇから、送ってっただけだ」

「あっそ。護衛や車を手配するんじゃなくて、自ら歩いて送っていくなんて、それはそれは何の他意もないんでしょうねぇ〜」


 レフは言葉を返す代わりに、人差し指をむかつく同僚のこめかみに向けた。

 指先に魔力が溜まる。かつん、と乾いた音と同時に、「いだっ」という情けない声が上がった。


「何すんだよ」

「威力は最小限に抑えた。大して痛くねぇだろ」


 カイルのこめかみに直撃した氷の欠片が、ころころと足元を転がる。

 指先に残る微かな冷気に、どこか懐かしさを覚えた。


 そういえば、あいつとの因縁の始まりも、これだった気がする。



 とある昼休み。レフは、窓際で本を読んでいたルーチェに向かって、魔法で作った氷の粒を飛ばしてみた。

 小中学生の悪戯にも満たないような挑発。それで少しでも、あの女の凍てついた表情にひびを入れたかった。

 だが、レフの些細な嫌がらせが命中したことは、一度もなかった。


 何度撃っても、すべて察知され、避けられる。表情ひとつ変えず、言葉ひとつ発さず、最小限の動きで。魔法で防ぐわけでもなく、ただの動体視力と反射神経だけでいなされる。

 そもそも攻撃されたこと自体、気にしている様子もなかった。読書であれ、花壇の水やりであれ、教室の掃き掃除であれ、友人との談笑であれ、数学の試験であれ、ルーチェは何事もなかったかのように続ける。


 威力こそ抑えていたとはいえ、氷魔法はレフが一番得意とする魔法だった。それを小蝿でも払うかのようにあしらわれて、気分が良いわけがない。

 むしろ小蝿の方がまだ手で振り払われる分、存在を認められていたくらいだ。レフの魔法に対してルーチェは、ほんの数ミリ体をずらすのみだったのだから。


 どれだけ小石を投げようと波紋ひとつ立たない、その凪いだ態度が、レフの神経をこれでもかと逆撫でした。



 そんなある日、授業で偶然、隣に座ることになった時のこと。

 机に教科書を広げるレフに向かって、ルーチェは何の前触れもなく言った。


「この至近距離では流石に撃ってこないでね、レフリートくん」

「……は?」


 言葉が耳に入るより先に、血の気が引いた。

 レフは物心つく前から、諜報員として鍛えられてきた。気配も敵意も魔力の痕跡も消して潜伏する術は、読み書きを覚えるずっと前から、体に叩き込まれてきた。


 それをまさか、この女に見抜かれるなんて。


 あの時吐き出した息の冷たさも。凍った指先で背筋をなぞられているような気持ち悪さも。水晶体越しに脳幹を貫くような、どんな真夏の太陽よりも鋭い日差しも。今でもはっきりと思い出せる。


「お前、いつから気づいて——」

「最初から」


 教科書をぺらりとめくりながら、なんでもないことのように彼女は言った。

 怒りも戸惑いも嘲りもない、淡々とした口調だった。


「それと——体への負担が大きいから、魔法はくだらないことには使わない方がいいよ」


 ——は? くだらない、だと?


 こめかみの奥で、ブチ、と何かが切れた。


『魔法』。それは人工的に開発された『魔』とは違い、限られた者だけが扱える力だ。その条件が何なのか、先天的なのか後天的なのか、という点も含め、未だ原理の大半は謎に包まれている。

 魔術とは比べ物にならないほど絶大な威力を引き出すことができるが、それゆえ消費される魔力の量も膨大だ。だから使うたびにある程度、体を削る。


 だが、氷の粒を飛ばす程度の術なら、数日も経たないうちに回復する。

 そんなかすり傷程度の怪我を負う価値すらないほど、自分の気持ちは『くだらない』らしい。

 その五文字に、引いていた血の気が一気に全身を駆け巡り、ぼこぼこと泡立った。


 あいつの一語一句、仕草、呼吸、全てが癪に障った。


 教室の窓から、昼下がりの日差しが差し込む。それが逆光になって、あの時のルーチェの顔はよく見えなかった。

 だが、それでよかった。

 だってあの瞬間、あの大嫌いな目を見てしまえば、レフの氷はきっと、彼女の両目を潰しにかかっていただろう。


「——れ、ふりーと……くん?」


 もしそうなっていたら、あの凍りついた瞳が揺れる瞬間を、きっと見られなかった。


 ぱりん、と高い音が鳴った。彼女の教科書——否、氷の塊と化したそれが、霜の降りた窓ガラスにひびを入れていた。氷ともガラスともつかない、透明な破片が、光を散らして床に落ちる。


 春風が雪を溶かす——なんて美しいものではなく、爆風が氷を砕くような暴力的な光景だったが、それでもレフはあの時、初めてルーチェの前で笑った。



 からん、と再び高い音が聞こえた。

 だがそれは氷やガラスが砕ける音ではなく、ペンが会議室の床に転がる音だった。


「おい、レフ。聞いてんのか?」

「ああ。お前が先週、返信が七分遅れたからって彼女に振られた話だろ」

「そうだよ、ほんと勘弁してくれよって感じで——っておい、ちげーよ!」


 カイルは手にしていた書類を机に叩きつけ、椅子の背にもたれて大きく息を吐いた。


「はーぁ、やっぱり自立した女の子の方がいいのかねぇ。レフの婚約者みたいな」

「可愛げはねぇぞ」

「え〜? ……あ、そういや来週のパーティー、ルーチェちゃんも来るんだよな」


 ルーチェ。その名を口にされた瞬間、ズキッとこめかみに変な痛みが走る。


「ああ。情報局のパーティーに軍の幹部なんか呼んでいいのか、って感じだけどな」

「国立魔導研究所の所長も来るってよ」

「へぇ」


 魔導研究所といえば、確かルーチェと親しかった同級生が勤めていたはずだ。

 だがそれ以外の印象は薄い。なぜその所長までが情報局主催のパーティーに顔を出すのか——そんなこと、考えたところでレフの知るところではない。


 ——それよりも。


「けど楽しみだなぁ、ルーチェちゃんと会えるの。すっげぇ美人だし」


 今はこいつの方が、気掛かりだった。


 一人ではしゃぐカイルから逃れるように書類に目を落とすが、内容が頭に入ってこないどころか、文字の輪郭すら霞んで見える。

 足元でさっきの氷が溶け、小さな水たまりを作っていた。


「写真であんなに可愛いんだから、実物はすげぇだろうな……。しかもパーティーでは軍服じゃなくてドレス姿だろ?」

「……」


 気づけばレフはまた、人差し指をカイルのこめかみに向けていた。

 冷気が頬を掠め、「いだぁっ!」というカイルの濁った悲鳴が響く。


「てめっ……人の脳みそ凍らす気か!?」

「……あんま近付くんじゃねぇぞ」


 口から出た声の低さに、我ながら驚いた。


「……ふーん?」


 妙に引き伸ばされたカイルの声が、頭上から落ちてくる。視線を上げずとも、どんな顔をしているのかは明白だ。

 たまらずレフは書類をがさっと抱え、立ち上がった。


「どこ行くんだよ」

「休憩。喉が渇いた」


 短く言い捨て、振り返りもせずに部屋を出る。空調の冷気が肌を刺す。

 まるで誰かに追い立てられているかのように、喉の渇きとは別の疼きを誤魔化すように、レフは廊下の奥へと歩を進めた。


 ——くだらねぇ。


 指先でひりつく痺れが、やけに煩わしかった。

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