第8話 似たもの同士

「そういえばさ、レフ。浮気とかしないでね」

「あ?」


 できる限りさらっと伝えたつもりだったが、レフは低い声と共に「何言ってんだお前」と言いたげな視線を飛ばしてきた。

 まぁ、それもそのはずだ。『浮気』だなんて言ったが、そもそもこの関係には、浮つくも何も、“気持ち”そのものが存在していないのだから。


「いや……バレたらめんどくさいから。任務とかは仕方ないけど」


 オープンマリッジだとかポリアモリーだとか、そうした関係の形は少しずつこの国にも浸透し始めている。

 けれど、それこそ『体裁』というべきか。お偉いさんたちが世間に媚を売るために宣っている綺麗事に過ぎなくて、政治の場で『多様性』ほど脆い三文字はない。

 たとえ互いに合意があったとしても、他の誰かと関係を持った事実が露見すれば、軍と情報局、両方の名に傷がつく。


「……あのなぁ」


 レフが眉間に皺を寄せる。心底うんざりした顔を見ていられず、ルーチェは思わず視線を泳がせた。

 彼は顔立ちも良いし、口も上手い。ルーチェが異例なだけで、普段は愛想もいい。その気になれば、軽口ひとつで大抵の相手を懐柔できるだろう。

 実際、高校時代だって、特に媚を売っていたわけでもないのに、レフのことが好きだという女子は、ルーチェの周りにも何人かいた。

 だからこそ、いくら任務とはいえ、大嫌いな相手と結婚させられるなんて、納得できないだろう。


「俺、そんな暇ねぇし。あと一応、俺なりに情報局には忠実なんだ。組織の顔に泥を塗るような真似はしねぇ」


 だが返ってきたのは意外にも、きっぱりとした否定だった。


「俺の仕事柄、誤解されることはあるかもしんねぇけど……少なくともプライベートでは、バカみたいにスキャンダルを起こす気はない。——それに」

 

 レフはテーブルの上に肘をつき、にやりと口角を持ち上げた。

 マナーもへったくれもないが、ルーチェの食事を横から掻っ攫う時点で今更だ。


「そんなことする時間があったらお前の機嫌とってる方が現実的だしな」

「……へ?」


 ぽかんと口を開け、言葉を失うルーチェを前に、レフは呆れた様子で首を振った。


「だってお前、機嫌悪いとあからさまに顔に出んだよ。さっきの顔とか見てらんなかったぜ」

「な……っ、だってレフがすごい『はぁ?』って感じの顔するから……」


 ルーチェの抗議に、レフは大袈裟にため息をつく。そして顔を上げると、ぐっとルーチェとの距離を縮めた。

 灰色の双眸が、じっとルーチェの瞳を捉える。硝子体を突き抜け、脳幹まで貫くような鋭い視線に、ルーチェは反射的に身を少し後ろへ引いた。


「……お前はすんのかよ、浮気」

「はぁ?」


 訳がわからない。するわけがないでしょ、と言いかけたところで、レフがくすっと笑みをこぼす。


「ほら、そういう反応になるだろ」

「あっ……」


 言われて気づく。自分の今の反応は、「浮気とかしないでね」と伝えた時のレフの反応とまるで同じだ。

 国を守りたいという思いはレフだって同じなのに、それを軽んじるような物言いをしてしまった気がして、少しだけ悔いる。


「……けどまぁ、そういう反応してくれて少し安心した」


 レフはふっと息を抜くように笑い、背もたれに体を預けた。


 ——なんで安心したの。


 面倒ごとが増えないから。組織の名を汚さないから。自分と同じくらいこの“任務”に真剣に取り組んでいると分かったから。

 答えなんて、分かりきっている。それなのに。


 反射する天井の照明が、まるで星みたいにワインの液面に滲んでいる。

 頭に浮かび上がってしまった疑問ごと流し込むように、ルーチェは赤い星空を煽った。

 葡萄の苦味が、舌の奥に残る。


「ばっ……ルーチェ、お前そんな一気に飲んだら酔うぞ!?」


 驚くレフをよそに、空になったグラスをテーブルの上に置く。

 縁を伝う水滴が、シャンデリアの光を反射してきらりと光った。

 指先でそれを拭う。傷だらけの手は、レースの袖とひどく不釣り合いだった。


「……レフってさ、彼女とかいたことあるの?」


 視界の端で、レフが再び「はぁ?」と言いたげに眉を上げるのが見えた。

 脈略のない質問になってしまったのはわかっている。自分でだって、なぜそんな言葉が口を突いて出たのか説明できない。

 ただ、気になった。それだけだった。


 先述の通り、引く手数多であろうレフに、少なくとも高校時代、彼女の影はなかった。

 とはいえ、お互いに忌み嫌っていたことを除けば、ただのクラスメイトであった自分から見えていた彼の側面は、ごく一部でしかない。


 レフは一瞬、苦笑いのような表情を浮かべた後、真顔になって視線を横に逸らした。

 その目が見据えているのは、向かいで談笑している親たちでもなければ、夜景を映した窓でもなかった。


「いねぇよ。……俺はずっと、諜報員としての勉強と鍛錬しかしてこなかったからな」


 嘘ではない。

 けれど真実の全てでもない。そんな声音だった。


「恋愛なんて面倒だし、そんな暇はない」


 固く締めくくられたその言葉は、どこか自分に言い聞かせるような響きを伴っていた。

 揺れる瞳に宿った微かな寂しさに、ルーチェの胸がちくりと疼いた。それは自分にも身に覚えのある痛みだった。


「……ふうん」

「お前さ、もうちょっとマシな相槌打てよな」

「いや……なんか私たちって意外と似たもの同士なのかなって」


 ふはっと笑って見せると、レフはぱちくりと瞬きをする。


「は? お前みたいなお堅い奴と似たもの同士とか嫌なんだけど」

「こっちこそ、あんたみたいな軽薄な奴と似てるとか認めたくないけどさ」


 そしてまた、いつもの罵り合い。

 顔を見合わせて、二人揃って息を吐く。

 ため息とも笑いともつかないその音が、二人の関係を何よりも忠実に表している気がした。



「そういえば、ルーチェちゃん。来週の金曜日、情報局のパーティーがあるの」


 食事も食べ終わり、そろそろお開きにしようかというところで、レフの母親が口を開く。


「そこにね、レフリートの婚約者として出席してもらえないかしら。急なお誘いになってしまって申し訳ないのだけれど……ドレスはこちらで用意するから」


 サラッと持ちかけられた誘いだが、内容はかなり重い。

 レフとの婚約が決まって、初めての社交の場——つまりそのパーティーは、ルーチェたちの関係が正式に“公”になる場だということだ。

 おまけに運の悪いことに、来週の金曜日には会議も報告会も査問も儀礼も何もない。

 パーティーに出席するくらいだったら、そっちの『体裁』に逃げ込みたいくらいだったが、普段から文句を言っているつけか、そういう時に手を差し伸べてはくれないらしい。


「はい。来週の金曜日でしたら、ちょうど予定はないので大丈夫です」


 だがそんな心境はおくびにも出さず、にこりと微笑んで模範解答を返せば、レフの母はぱっと花の咲いたような笑みを浮かべた。


「ありがとう! お迎えにはレフリートを行かせるわね」


 急に指名されたレフだが、隣を見れば驚きも何もなく、さも当然かというように整った笑顔を浮かべて頷いている。

 あまりにも完璧なその表情を、今日はずっと見せつけられてきたはずなのに、悪態をついてばかりの口悪男しか知らないルーチェからすれば、どうにも落ち着かない。

 来週の金曜日も、これを嫌というほど網膜に焼き付けられるのかと思うと、すでに胸焼けがした。


 来週にも憂鬱な予定が増えてしまった。

 むしろ今はまだ“婚約”状態だから幾分マシな方かもしれない。籍を入れてしまえば、とうとう逃げ場はなくなる。

 そこまで考えたところで、ルーチェは思考を手放すことに決めた。これ以上考えても、神経をすり減らすだけで何のためにもならない。


 手元のグラスは空っぽなのに、アルコールを注ぎ込まれた頭も同じくらいクリアだった。

 今日ほど、酒に強い自分を恨んだ日はないかもしれない。

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