第5話 十字架は背負わせない
両家の顔合わせ——と銘打たれた、軍と情報局のいわば“和平条約の締結の場”。
腹の探り合いという名の地獄を覚悟して臨んだルーチェだったが、食事会は存外、和やかに幕を開けていた。
「ルーチェちゃんは軍で副師団長を務めているんですってね」
レフの母が、にこやかに話を振る。
「しかも最精鋭の第一魔導戦術師団だなんて。さすが、天才魔導士として名を馳せているものね。総司令官様の血筋かしら」
「今は国力が魔導力に比例する時代だからな。非常に立派なことだ」
隣で満足げに頷いているのは、情報局長であるレフの父。どうやら彼は、魔導を重んじる主義らしい。
諜報員でありながら、軍の一線級に匹敵するほどのレフの魔法の腕は、この父親の教育の賜物なのかもしれない。
「そんな、恐縮です……」
ルーチェが控えめに答えると、軽い笑い声が聞こえてくる。
その笑いがレフのものだと気づくのに少し時間がかかった。
「ルーチェは昔から、魔導が好きだったもんな」
「レフリート君も、人のこと言えませんよ?」
レフの顔を目の当たりにする度に、重力に負けてしまいそうになる口角を、一生懸命持ち上げる。
まさかレフにこんな笑顔を向ける日が来るとは思っていなかった。
もっとも、レフの“爽やか営業スマイル”を、真正面から受けることになるとも思っていなかったが。
「なんにせよ、まだまだ粗削りですので、前進を続けていく所存です」
「『前進』か……。それもいいが」
ふと、レフの父の声が低く落ちる。
——嫌な予感がした。
見るとレフも、ナイフを静かに皿に置き、真剣な面持ちで父親を見つめている。
「……軍と情報局がこのように手を結ぶのは、歴史に残る未曾有の出来事だ。だが、我々が影響を及ぼしたいのは歴史書ではなく今の王国。となると、紙の上だけでは限度がある」
眼鏡の奥の瞳が鈍く光った。
蛇のように首筋へ絡みつき、締め上げるような視線。レフによく似ているように見えた灰色は、今ではまるで別の色に見える。
だが、どこかで見覚えがある——ああ、そうだ。
軍本部の会議室にゴロゴロいる、あの“上層部の目”だ。
「……言いたいことは?」
レフが問うと、局長は息子を見据えて淡々と答えた。
「象徴が要る。両家の血が混ざった、生きた証がな」
ピシ、と空気が凍りつく。
『両家の血が混ざった、生きた証』。
一つの命を指し示すには、あまりにも無情で無機質な響きに、冷えた手で首を絞められるような感覚を覚えた。
そう、これはあくまで軍と情報局という、国家を支える二大機関の会合に過ぎない。そして自分もまた、その駒の一つに過ぎないのだ。
レフの言葉や穏やかな雰囲気で靄がかかっていた現実が、急に明度を増し、ルーチェの脳を殴る。
「……おっしゃることはわかりますが、それは少し早計ではありませんか、局長」
ルーチェの父が、苦笑いを浮かべながら助け舟を出した。
「レフリート君もルーチェも、まだ若いし、それぞれ責務があります」
「もちろん、今すぐにとは言わんさ。だが、この同盟を確かなものにするためには、避けては通れまい。それに、結婚している夫婦なのだ。子がいてもおかしくない……寧ろいる方が自然なことだろう」
子供がいれば、確かに二つの組織の結びつきは、格段に強固なものになる。
だが、一つの命を政治の道具として望むのは、あまりに冒涜的ではないだろうか。
とはいえ、そんな反論を口にできる立場でもない。
ルーチェが唇を噛んで俯いた、その時だった。すぐ隣から声がしたのは。
「……流石にその発言はいただけないかな、父さん」
ルーチェが驚いて顔を上げると、レフが毅然とした態度で父親を見つめていた。
「子供というのは、そんな政略のために作るものじゃない。それに……その発言は、子供を産むルーチェへの負担を、まるで考えていないだろう」
「えっ」
レフがそう言った瞬間、思わず小さく声が漏れる。
それは、ルーチェ自身ですら考えていなかったことだった。この身も人生も全て、自分のものではなく、国の財産として使われるのは、ルーチェにとってあまりにも当然のことだったから。
「出産だけは僕にも誰にも代わってあげられない。すべてルーチェに背負わせることになる。それに……ルーチェから、前線での仕事を奪いたくはない」
言い終える瞬間、レフの表情は微かに歪んでいた。
普段、彼が滅多に見せない感情の揺れに、ルーチェまでもが揺さぶられる。
——ルーチェから、前線での仕事を奪いたくはない。
そんな言葉が、レフの口から発せられるとは思わなかった。
だが同時にそれは、何度も魔法をぶつけ合った仲であるレフだからこそ、出てくるものでもあった。
彼は誰よりも、ルーチェが魔導に捧げている情熱を知っている。
なぜならその身を持って、何度も思い知らされてきたから。
「……国際情勢が芳しくない今、ルーチェという圧倒的な戦力を失う方が、国としても痛手だ」
レフは顔を引き締め、作り直した理性的な声色で、さっきの感情的な発言を上書きするように言った。
局長は険しい目つきで息子を見つめていたが、レフは怯まずに畳み掛ける。
「まさか本気で、子供を作ることで国を救えるなんてお思いで? そんな非合理的な発想に走るほど、情報局長は耄碌していないはずです」
あからさまに棘のあるレフの発言に、ルーチェの心臓がどくりと歪な音を立てた。
だが彼はそんなルーチェをちらりと見遣り、微笑む。
ほんの一瞬、口の端をわずかに持ち上げただけの笑み。それは妙に優しく、不思議と懐かしかった。
そして、大衆向けの完璧な笑顔よりも、心底憎い宿敵と喧嘩の果てに蛍光灯を粉々にした時の、意地悪な笑みにずっと近く見えた。
静まり返った食卓の上で、ナイフの刃先がわずかに光を弾いた。
銀色の表面が、レフの冷たい瞳をさらに冷ややかに反射している。
けれどそれとは対照的に、ルーチェは胸の内にぼんやりと温もりが広がっていくのを感じた。
「……その皮肉癖はよさないか、客人の前だ」
「その客人に無礼な発言をしたのは、父さんの方だ」
食卓の空気が、ずしりと重たくなる。まるで冷戦の縮図だ。
グラスの中の紅色の水平線越しに、目を見開きながらもどこか嬉しそうに微笑む母の顔が見えた。
「……ありがとう、レフリート君」
低く静かな声が、 場の緊張を少しだけ解く。声の主は、緩やかに微笑むルーチェの父だった。
寡黙な軍人の父が、家庭の外で表情筋を緩めることなど滅多にない。
思わぬ方向からの声に、レフはぱちりと瞬きをし、視線を向けた。
「君の言う通りだ。生まれる前の子供に、国の礎なんて重い十字架を背負わせてはならない」
「……軍人らしくもない理想論ですね」
ルーチェの父の発言に、局長が片眉を寄せる。
彼が眼鏡のブリッジを押し上げると、そのレンズにシャンデリアの琥珀色がぎらりと反射した。
「……理想を持たぬ軍は、ただの暴力装置に過ぎません」
気づけば、ルーチェ自身も声を上げていた。
「レフの言う通りです。私はこの国のためなら、自分の人生を捧げられます。ですがそれを、自分の子供にまで強いることはできません」
思わずいつもの呼び方が出てしまったが、構わなかった。
呼吸すら憚られるような静寂が張り詰める。
空気の粒子までもが緊張で動きを止めたかのように、部屋の温度が落ちる。
「……レフリート、お前は随分とこの副師団長に入れ込んでいるようだな」
「僕は彼女を庇っているのではなく、倫理の話をしているだけです」
局長はグラスを持ち上げ、喉の奥で低い笑みを漏らした。
乾いた血のような紅色が、彼の手元で波打つ。
「まったく、最近の若いのは随分と強情だ。だが、まぁ……悪くはない。“強さ”というのは、血筋よりも信念に宿るものだからな」
それが譲歩なのか、あるいは宣戦布告なのかは分からなかった。
ただ、銃も爆弾もないはずのこの部屋に、鏡と銀食器に反射された琥珀色が、まるで火花のように散っていた。
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