疾走

 高校時代の友人を通して、颯斗が浅草にいるのは知っていた。だから私は週末になると総武線を乗り継いで夜の浅草に繰り出してきたのだ。颯斗と偶然の再会を期待して、あの浴衣を初めて着た夏祭りの打ち上げ花火が光る瞬間を待つように。私は何ヶ月も再会の瞬間を待ち望んできた。しかし、いざ本人と対面すると戸惑うばかりだ。最適な表情がわからない。十年越しの再会に無邪気な笑顔を泛かべるべきなのか。それとも十年前に颯斗を泣かせた罪悪感に俯き加減になるべきか。私は夜風に前髪を揺らしながら、ただ無言のまま颯斗と向き合う。無表情のまま颯斗から目を逸さなかった。また颯斗自身も私から目を逸さなかった。

 颯斗に言いたい言葉は沢山ある。颯斗と別れてから、無数の言葉が心の奥底から湧いて仕方なかった。心の裡で抱えきれなくなり、宛名のない便箋に書き綴ったこともある。その言葉の数々を今も持て余している。けれど私の喉は情けないほど錆び付いて、声が上手く出ない。胸の裡に言葉は形作られているのに、声に翻訳できないのである。声を出そうとすると声帯が不恰好に痙攣するだけだ。生唾ばかり湧いて、顔の内側が段々と熱くなる。無言のまま踵を返すことさえ考えた。しかし私は立ち去らなかった。私の足の筋肉は硬直して、眼差しは愛しい颯斗に固定されていた。もし立ち去れば、もう二度と颯斗と再会できない直感が働いていたからだ。

 ふと颯斗が微笑んだ。唇が開いて白い前歯が覗いた。その懐かしくも淡い微笑を合図に浅草の喧騒が私たちの沈黙を埋めた。自動車の騒音や外国人観光客の英語といった音が気まずい沈黙を埋め尽くしていく。頭上に吊るされた提灯の赤い光が颯斗の顔に踊る。颯斗は梶棒を地面に下ろした。水平を維持していた人力車が斜めに傾いだ。

「乗りますか、教子さん」と颯斗は以前と変わらない声色で尋ねた。

 昔は教子と呼び捨てなのに、現在は丁寧にさん付けである。それが私の傲慢な欲望の結果だ。布団の狭い空間のなかで愛し合った日々は私が自ら裁断機に掛けたのだ。自業自得の哀切に心を引き攣らせながら、私は小さく頷いた。颯斗は営業的な笑顔でコースと料金を説明した。私は一時間コースを選択した。そして颯斗に促されて人力車に乗った。人力車に足を掛けると硬く硬直した時間がひび割れた。

「スカイツリーの方まで、行きたい」と私は敢えて敬語を遣わず言った。

 私は緊張しながら赤い膝掛けを腰に掛けた。縮緬素材で肌触りが柔らかい。人力車に身を下ろすと自意識過剰な気恥ずかしさは消えた。浅草の夜と人力車の暗闇がひとつに溶けた。腰を浮かして居住いを正すと颯斗は梶棒を水平に持ち上げた。人力車は思いの外軽く持ち上がった。颯斗は車道の自動車が途切れると方向転換して吾妻橋の方角へ向いた。颯斗が梶棒を強く握り締め、両足に力を入れる感覚が人力車の微細な揺れとして伝わった。颯斗は一度だけ私に振り返ると、号砲が鳴り響いたように走り出した。颯斗の爪先が暗闇を自在に切り拓いていく。浅草の灯りが後方へと流れていく。八月の生温い夜風が頬を打つ。ほろ酔いの頬が醒めていく。私は人力車に背中を預けて、颯斗の背中を漠然と眺める。一度走りはじめた颯斗は前屈みの姿勢で速度を上げる。その緩やかな揺れに身を預けると、十年前の夏の日々が脳裏に明滅した。

 私と颯斗は地元の長野県立高校の陸上部で知り合った。母校の陸上部は決して強豪校ではない。地元の大会では優勝や準優勝を飾れるが、それ以上の大会となると途端に歯が立たなくなる。だから部員の熱意は基本的には中程度で、全国を目指す熱気などなかった。つまり極一般的な陸上部である。その陸上部で最も熱意が高く、長距離走に全身全霊を賭していたのは颯斗ひとりだった。

 ──教子をインターハイに連れていく。それが颯斗の口癖だったね。

 颯斗は誰よりも努力の人だった。颯斗が毎晩ひとりで走り込みしていたのを私は知っている。私はマネージャーとして、その血気盛んな颯斗が好きだった。だから私は颯斗の緊張のあまり上擦った愛の告白を受け入れたのである。あの小鳥が囀り、明るい蝉時雨が夏を濡らし、積乱雲が夕焼ける日々を私は忘れない。

 奇妙な感覚だ。当時の私は走る颯斗を横から見守っていたが、現在は背中から見守っている。その背中は十年前より鍛えられ、背筋の強張りが半被越しに見える。随分と逞しい背中になった。人生を背負えるほど広い背中である。かつて私が抱き締めた背中の面影はない。颯斗の鍛え抜いた強靭な両足がアスファルトを蹴る。その足の振動が人力車の車輪を通して腰の底に伝わる。颯斗の背中心は乱れない。両肩も上下左右に乱れない。ただ浅草の夜景を見据えて走り続ける。隅田川に掛かる吾妻橋を渡ると赤信号に捕まった。

「教子さん」と颯斗は言うと私の顔を振り返った。「教子さん、先生になれたの」

 颯斗の声は自動車が交差する信号の手前でも一際鮮明に聞こえた。それは私の挫折を見透かしたような声色にも聞こえ、また邪推を含まない純粋な疑問にも聞こえた。私は赤信号の光を後光とする颯斗の顔を見つめ、膝掛けの下の両手を握り締めた。素直に白状すれば、私は颯斗との邂逅を望みながら、その核心的な質問に恐れ慄いていた。夢の挫折を知られたくない。その程度の陳腐な自尊心はあった。しかし颯斗に白々しい嘘を吐くのも虚しさが募るだけだ。未だに愛しい人に嘘を吐いて何になる。無様な現実が白い波濤となって私に押し寄せ、酒の量が増えるだけだ。

 私は、ひと呼吸おいた。颯斗は言葉を待つように小首を傾げた。

「なれなかったんだよね」と私は颯斗を見つめながら告白した。

 私の言葉は上擦りもせず、逆に暗くもならず、平然と口から出た。その言葉は半ば自暴自棄な現実として私と颯斗の間に横たわった。颯斗の鼻に私の酒の匂いさえ届いた気がした。颯斗は無言のまま私を見つめ返した。颯斗の向こう側の車道を自動車が行き交う。若い男女が手を繋ぎながら吾妻橋を渡っていく。男女の幸福に満ちた笑い声が鼓膜を撫でる。隅田川の磯臭さが鼻先を擽る。颯斗は少しだけ愁いの皺を眉間に刻むと前を向いた。信号が青に切り替わると颯斗は走りはじめた。車輪が幽かな金属音を鳴らして私を運んでいく。道路の溝を踏むと車体が一度だけ縦に揺れた。

 結局、私はまた颯斗を裏切ったのだ。私に恋情を寄せ、一緒の大学に行きたいと涙して縋り付いた颯斗を、私はまた傷つけたのである。先生になれ。私は颯斗との約束を破ったのだ。夢の跡には颯斗の無言の背中だけが残った。

 私は塾講師としての生活を赤裸々に語った。けれど私が仮初の言葉を紡げば紡ぐほど、真なる言葉が心の奥底で酩酊を迸りながら脈打つ。私が吐露したいのは塾講師としての落魄れた生活ではない。断じて違う。それは学校教師という人生と夢を諦めた日に芽生えた言葉だ。言え。言ってしまえ! 心の底に沈殿していた真の言葉は、私の僅かな沈黙を隔てた瞬間に口から洩れた。

「ごめん。颯斗との約束、守れなかった」

 颯斗は私の言葉を合図に人力車を車道の側に停めた。ちりちりと車輪が軽い金属音を鳴らしながら止まった。颯斗は梶棒を水平に持ったまま正面の暗闇を見つめ、無言のまま私に振り向いた。その精悍な男らしい顔付きになった颯斗は微笑んだ。

「俺の方こそ、ごめんな。なんだか、教子に背負わせちゃったみたいだな」

 颯斗は十年前と変化のない笑顔を泛かべると人差し指で顳顬を引っ掻いた。そして若き日の青春を回想するように両目を細め、また正面を向くと人力車を引きはじめた。颯斗は勢いよく地面を蹴ると、私を光り輝くスカイツリーへと運んだ。

 一世一代の告白を終えたように心が凪いでいる。耳を澄ませば心の静かな潮騒が聞こえる。私は確かに十年前に颯斗を振った。東京の大学に進学して好きでもない彼氏を作り、男女の関係を持ち、そして別れを繰り返した。どんな男と交際しても長続きはしなかった。私の心のなかには颯斗がいた。夏の青空の下で必死に走る颯斗の笑顔があった。校庭を颯爽と走る両足、額から迸る汗の輝き、長距離走を終えて肩で呼吸する真っ赤な顔、そんな青春の輝きに生きる颯斗を片時も忘れたことがなかった。だからこそ私は心を掻き乱される。毎晩夜遅くまで酒を呑んでいる。十年の歳月が経過しても、私の気持ちは変わらない。私は未だに心の底から颯斗を愛しているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る